年間第10主日B年 (マコ3,20-35)

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」マコ3,28-29

この地上は、善と悪の争いの舞台であると言えると思います。また、この争いは、霊的な善と霊的な悪の争いの現れであるとさえ言えるかもしれません。各々の戦いにおいて悪が勝ったり、善が勝ったりすることがありますが、最終的な勝利者はすでに決まっています。この勝利者とは、人格的な善そのものであり、堕落して悪霊となった天使を含めて、存在しているすべてのものの創造主である、神なのです。

イエス・キリストは、人格的な悪である悪霊に取りつかれていた人を、一言だけで解放する力を持っていました。イエスに対して敵意を持っていた人たちでさえ、イエスがベルゼブルの力や悪霊の頭の力を以て悪霊を追い出していると訴えることによって、イエスが悪霊を追い出す力を持っておられたという事実を認めていました。イエスは、このようなご自分の働きを説明して、次のように語ります。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11,20)。要するに、ご自分が神ご自身の力、言い換えれば、聖霊の力を以て、悪霊を追い出しているということと、この働きは神の国の到来、つまり神ご自身の最終的な勝利を表すしるしであるということです。

人間は自由意志を持っていますので、善を行うことも、悪を行うことも選ぶことができます。そのような選択によって人間は、そんなつもりがなくても、実際に自分の仲間を選んでいるのです。人間は、殆どの場合、自分の無知のゆえに騙されて、悪を行うことによって自分の心を悪霊に対して開き、だんだんと悪霊の支配下に入り、悪霊の虜になっていくのです。

幸いに神は、誰一人と言えども諦めたりしませんので、人が回心して、神のもとに戻るよう常に働いてくださいます。ですから、悪霊の虜となったこの人が自分の過ちに気が付いて、神のゆるしを求めるならば、必ず神に受け入れられるということを、イエス・キリストが約束してくださったわけです。

けれども、人の罪や過ちを示してくださる聖霊の働きに応じることなく、頑なな心を持って、自分の罪や過ちの結果である現状に留まるならば、この人の罪がゆるされることはなく、命と愛、またその他のすべての良いものの源である神から、永遠に離れることになるということも、イエスが教え警告してくださっているのです。

 

年間第6火曜日 (マコ8,14-21)

「イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。』」マコ8,17-18

イエスが5千人を五つのパンで、また、4千人を七つのパンで満たされたことを体験しても、自分たちのために一つのパンしか持っていないことを心配した弟子たちは、ファリサイ派の人々と同じように、自分の経験から何も学んでいないことを表したのです。

イエスが遣わしてくださった聖霊を受けて初めて、過去の経験を理解してイエスのことを信じ、与えられた使命を果たした弟子たちと同じように、聖霊の光に照らされて、日常の出来事の中でキリストの働きと導きを見出して、イエスをますます強く信頼して、一層忠実に従うことができますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたはわたしたちを選び、光の子としてくださいました。
わたしたちが罪のやみに迷うことなく、
いつも真理の光のうちに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第6主日B年 (マコ1,40-45)

 

「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」マコ1,40-42

律法は重い皮膚病を患っている人が、健康な人に近づくのを禁じていました。健康な人も、この病気を患っている人に触れることや、近づくことさえも禁じられていました。万一、誰かがこの人に触れたら、この人と同じように汚れたものになって、この人と同じように扱われるようになったのです。

イエスに近づいた病人だけではなく、この人に触れたイエス御自身も、律法を破りました。けれども、結果的にイエスが汚れたものになる代わりに、重い皮膚病を患っていた人が清められたのです。けれども、病人が本当に癒されたとしても、祭司の証明書がなければ、誰もこの人が治ったということを認めることができなかったし、この人も普通の生活に戻ることもできませんでした。祭司の証明書がない限り、イエスも町に入ることができなくなっていたのです。

癒された人がイエスの言いつけを無視したために、町に入ろうとしたイエスの計画を妨げてしまいました。けれども、イエスが自分の計画を実現することができなくなっても、イエスの周りに集まる人は少なくなるのではなく、不思議なことに増えていったのです。

この物語は、神の働き方と力を現しています。まず、神は人が作った制限を超えて、そこから人を救い出してくださるということです。それから、人間の不従順は、神の救いの働きを止めることができないし、神は反対されればされるほど力強く働いて、元の計画よりも一層立派なことを成し遂げてくださるということなのです。

人々はイエスを十字架に付けることによって、その救いの働きを完全に破壊しようとしましたが、神はイエス・キリストの十字架上の死によって、ご自分の無条件の愛を啓示し、罪の結果である死を滅ぼしてくださったのです。イエスの死は、人間の計らいどおりのような、神の救いの計画の破壊ではなく、神の計画のより素晴らしい実現になったのです。

聖なる父よ、
あなたは、正義を求める人、
誠実な人とともにおられます。
わたしたちが、恵みに支えられて
豊かな実りをもたらすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。