年間第5主日B年 (マコ1,29-39)

「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」マコ1,36-38

もし、イエスが頼まれた時に必ず病気の人を癒してくださったならば、どんなことになったのでしょうか。恐らく聖マルコが描いているように、数え切れないほどの人々、もしかしたらほとんどすべての人々がイエスのもとに来たのではないかと思います。けれども、同じ福音書が伝えている通り、イエスが人の願いに応じない時もあり、すべての人の病気を治すわけではありませんでした。そのため、病気を治してもらいたい人々の中には、イエスにがっかりする人があっても不思議ではなかったと思います。

どうしてイエスはすべての人の病気を癒すわけではないのでしょうか。どうしてイエスは、ご自分にがっかりする気持ちを持つことを人に許しているのでしょうか。

確かに、ペトロの姑のように、癒しの恵みを体験することによって、感謝の念を抱き、愛を実行して人に奉仕するようになる人、つまり体の癒しだけではなく心の癒しも受け入れる人もいますが、ほとんどの人は、感謝もしなければ、自分の生き方を変えることもありませんし、勝手に自分の都合のためにイエスを利用しようとしているだけです。

イエスが求めておられるのは、すべての人が完全に幸せに生きることです。そのためには、体だけではなく心も魂も癒したいと望んでおられるのです。最終的には、父である神と一体になることが私たちの完全な癒しになるのです。そのためにイエスは、私たち一人ひとりに合わせて、父である神のもとに導こうとしています。大事なのはイエスを信頼して、自分の期待に合わない言葉や行いにおいても、その導きを見いだしてイエスに従うことなのです。

信じる者の力である神よ、
尽きることのないいつくしみのうちに
わたしたちを守ってください。
あなたの恵みを唯一の希望とするこの家族が、
いつもあなたの力によって強められますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

 

1月28日 年間第4主日B年 (マコ1,21-28)

「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」マコ1,27-28

イエスは、他の人よりも大きな力を示したので、彼の評判が早く広まって、大勢の人々がイエスのもとに集い、イエスに従うようになりました。けれども、イエスが逮捕された後に、ほとんど皆がイエスから離れてしまいました。イエスを逮捕した人たちの方が、イエスより大きな力を持っていると思うようになった人たちは、イエスを迫害していた権力者の味方になって、権力者らが望んだ通りにイエスの死刑を請求したのです。

この人たちは、イエスから自分の利益になると思うようなものしか求めませんでしたので、イエスと出会っても、イエスの行いや言葉の意味をまったく理解せず、イエスの真の素晴らしさを見出すことができませんでした。結果的に、イエスに対して心を開かずに、イエスが彼らに一番与えたかった賜物、一番価値のあるもの、すなわち、神の愛と神の命を受け入れることができなかったのです。

けれども、イエスが権力者たちに負けたように見えても、十字架に付けられて何もできないようになっても、そのイエスのもとに最後までとどまった人もいました。彼らはイエスを愛していましたので、彼らがイエスに従ったのは、何らかの報いを手にするためではなく、イエスと共にいるため、また、イエスに奉仕するためでした。彼らは愛の目で見たので、イエスの力強い行いにおいても、イエスの受難や十字架の死においても、無限の愛を、あらゆる悪と死よりも強い愛を、見出すことができましたし、この愛を受け入れることができたのです。

イエスに従っている私たちは、絶えず自分の動機を調べ、必要に応じてこの動機を正すようにしなければなりません。なぜなら、愛のためにイエスに従う人だけが、どれほど大きな力によっても消し去ることのできない絆でイエスと結ばれ、永遠の命にあずかり、この地上においても死を超えてもなお、本当に豊かに生きることができるからです。

1月21日 年間第3主日B年 (マコ1,14-20)

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」マコ1,14-15

神は創造してくださった世界を人間の支配にゆだねました(創1,28参照)。支配の本来の意味とは、漢字が示唆している通り「支えると配る」、つまり、自分の支配下にあるものを自分の利益のために利用するということではなく、支配下にあるものの善のために力を尽くして奉仕するということなのです。神が人間に求めておられる世界の支配とは、人間が創造主と協力しながら、この世界を完成へと導くということです。世界を人間の支配にゆだねるというのは、創造のわざにあずかるように人間を招くということです。
残念ながら、人間は神の望みに逆らって、ゆだねられた被造物を自分の欲望を満たすために利用するようになりました。結果的に、人間は神との親しい交わりと自由をはじめ、いろいろな素晴らしい賜物を失い、世界は悪化して、いろいろな不正や病気や災い、また、死がこの世に入り込んだのです。世界は、神が求められているような所というよりも、悪霊が求めているような所になり、神が支配されるのではなく、悪霊が支配している所になったということさえ言えると思います。
イエス・キリストはこのような世界に生まれてきて、その現実をよく知っていましたが、「神の国が近づいた」と宣言します。確かに、神は人間に創造のわざにあずかることを求めていますが、この世界の完成、つまり、神の国の実現は、人間の協力に頼らずとも、神ご自身の果たし得るわざなのです。人間が神の招きを無視しているがゆえに、世界が間違った方向に向かっても、神の国は遠ざかっているのではなく、それに近づいているという宣言が福音、良いお知らせなのです。
いつか必ず到来する神の国に入るために、私たちは悔い改める必要があります。それはイエスに従うことによって、自分の考え方や価値観や生き方を、イエスが教えてくださった考え方や価値観や生き方に変えるということなのです。

全能永遠の、神である父よ、
わたしたちの行いがいつも
み旨にかなうよう導いてください。
御子キリストのうちにあって
豊かな実を結ぶことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。