11月5日 年間第31主日A年  (マタ23,1-12)

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」マタ 23,11-12

律法学者たちやファリサイ派の人々は、神が与えてくださった掟に従えば、神から祝福を受ける、つまり報いを与えられると信じていました。しかし、彼らにとって神の祝福を受けるとは、自分の欲求を神に満たしてもらうということでした。そして、掟を守るように一生懸命に努力しても、自分の欲求はなかなか満たされなかったので、神を頼りにすることを諦めて、力が許す限り、自分で自分の欲求を満たそうとするようになったようです。

彼らが自分の努力によって手に入れることができたのは、会堂の上席に座ることや、挨拶されることや、先生や教師と呼ばれるというような、ユダヤ人の世界の中のちょっとした特権だけでしたので、その特権によって自分たちが偉い人間であると感じることができたでしょうし、そんな自分のことで満足していたかもしれません。しかし、彼らの心は、信頼せず、頼ることのできなかった神と、彼らが軽蔑していた人々から離れていたので、彼らが得たことよりも、はるかに大切なもの、本当の価値のあるものを失っていたわけです。

神がくださった掟やイエスの教えは、自分たちの欲求を満たすための条件ではなく、創造主である神が定めた人生の目的への道を示す道標であり、神を信頼して、この道標に従う人は、すでに神の命にあずかり、神との交わりの内に生きて、人間として成長していることをますます多くの人が意識して、イエス・キリストとともにこの道を歩むことができますように祈りましょう。

すべてを一つに集めてくださる父よ、
信じる人々が、
あなたにふさわしい礼拝をささげることができるのは
あなたの恵みによるものです。
今ここに集まっているわたしたちが、
約束された国に向かって
ともに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

10月29日 年間第30主日A年 (マタ22,34-40)

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」マタ22,37-40

数年前に、 「おそらく、神が存在していないので、人生を楽しんでください」という言葉が書かれた広告がロンドン市で現れたようです。この広告を出したのは、無神論者会です。この言葉を見る限り、彼らにとって神とは、人間が楽しく(幸せに?)生きるのを妨げる存在、または発想なのです。もしかしたら、彼らが考えているような神は、人間をいじめるために、楽しいことを禁じて、楽しくないことを命じる方なのです。そうだとすれば、実はそんな神は存在していないので、安心しましょう。

キリストが啓示してくださった神が人間から最終的に求めているのは、ただ一つ、それは愛することなのです。神は、私たちから愛することを要求しているだけではなく、キリストによって、愛することが不可能である状態から私たちを解放し、愛する可能性も与えてくださったのです。神が遣わしてくださったキリストの救いの業のおかげで、私たちは愛に根ざした、最も人間らしい、最も幸福な人生を送ることができるようになったわけです。本当に存在している神は、人間にとって最も幸せな生き方を妨げるのではなく、逆にそれを可能にしてくださる方なのです。ですから、神が存在していなければ、私たちには幸せに生きる可能性すらなく、いろいろな苦しみの中で、時に自分の欲望が満たされるというような希望しか持つことができなかったがゆえに、私たちは実際には、絶望的状態の内に生きたはずなのです。

しかし、神の望みに応えて愛に生きれば、人間は必ず永遠の命を受け継ぐということを、イエス・キリストが私たちに約束してくださいました。永遠の命とは、神の愛のうちに永遠に生きることなのです。要するに、人間が地上で、愛に生きることを学ぶならば、この愛が死を超えて、永遠に延ばされるということになるわけです。神のおかげで、私たちはこの地上だけではなく、永遠に愛することができますので、神が存在していないということではなく、キリストが啓示してくださった神が本当に存在しているということこそ良い知らせで、宣べ伝える価値のある事実なのです。

恵み豊かな神よ、
わたしたちの信仰、希望、愛を強めてください。
すべてに越えてあなたを愛し、
約束された永遠のいのちを受けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

10月22日 年間第29主日 A年  (マタ22,15-21)

「イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」マタ22,21

「皇帝のものは皇帝に…返しなさい」という言葉の意味は割合と理解しやすいものです。支配者に「返す」べきものは、支配者が作成した法律によってはっきりと決められています。国民には、嫌でも決まっている義務を果たすか、義務を果たさずに、同じ法律で定められている刑罰を受けるかという選択しかありません。

聖書には神が与えた掟が書き記されているし、その掟とイエスの教えに基づいて、教会は信者が守るべきことを具体的に決めています。けれども、私たちは 義務的に、場合によって刑罰を恐れて国の法律を守っているような仕方で、神の掟や教会の決まりを守るだけで十分なのでしょうか。それだけで、「神のものを神に返す」ことになるのでしょうか。決してそうではありません。

律法を忠実に守るように努力していたファリサイ派の人たちについて、イエスはこう言われました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている』」(マコ7,6)、と。心はこの世の支配者や権力者たちから離れていても、彼らが定められた義務さえ果たせば、十分でしょうが、神が何よりも求めておられるのは、私たちの心、つまり私たちの愛なのです。神の掟を守ることは、神に対する愛と信頼の表現であるときだけ、神が喜ぶものになるのです。

イエスは「神のものは神に返しなさい」という言葉を、国民に向けて語っただけではなく、支配者や権力者に向けても語っています。要するに、国民だけではなく、国を治める政治家たちも、神のものを神に返さなければならないということなのです。そのために、支配者たちには神の掟に逆らう権利がありません。もし、彼らが神の掟に逆らうような法律を作成するならば、国民にはそれに従う義務がありません。正しい手段を用いて反対を示してもいいのですが、神の望みに逆らう反乱のような手段を用いる権利はありません。ですから、支配者に従うのではなく、自分の良心に従うことを選ぶ人は、イエスや大勢の殉教者と同じように、神がこの世の支配者の悪よりも力強い方であると信じて、不正な法律が定めている不正な罰を受ける覚悟をする必要があるのです。

喜びの源である父よ、
あなたに感謝をささげるために、
わたしたちはここに集まっています。
キリストの復活を信じるわたしたちが、
日々の仕事を通して神の国のあかしとなることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。