10月15日 年間第28主日 A年 (マタ22,1-14)

「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」マタ22,2-3

多くの人々は、置かれている境遇に左右されています。自分の想像や期待通りになっている時は、喜びや安心を感じて、幸福感を味わっていますが、そうでない時は、がっかりして、怒り、不満、悲しみ、不安というような感情が湧き出て、人は不幸になります。

聖パウロは「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」(フィリ4,11)と書いて、自分の精神的な状態は、周りの環境に支配されないようになったと告白します。このことが可能になったのは、つまり聖パウロが外部の境遇の影響から解放されたのは、彼を強めてくださったイエス・キリストのお陰だと言っています。

永遠に続く幸福を象徴している婚宴には、すべての人が招かれています。残念ながら、この招きを断る人がいます。この人たちは、自分の思いに従って幸せになろうとしていますが、彼らが頼りにしているものは変化しやすいもので、何時か必ず過ぎ去るものですので、彼らが味わっている幸福感は一時的なものにすぎないのです。

イエスの招きを受け入れて、宴会に参加する人が、変わることのない永遠に続く幸福を味わうことができるのは、イエスが彼らに特別に美味しい食べ物や飲み物を与えるからではありません。それは、イエスが彼らにご自分自身を与えるからなのです。

死に打ち勝って永遠に生きておられるイエスが、永遠に続く喜びの唯一の源ですので、イエスを愛さなければ、たとえ天国に入っても幸せにはなれません。けれども、イエスを愛すれば、天国に入らなくても、聖パウロのようにどんな状況においても、幸せに生きることが可能になるのです。

すべてを治められる神よ、
あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。
この愛に支えられるわたしたちが、
いつも心から兄弟に仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

10月8日 年間第27主日A年  (マタ21,33-43)

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」マタ21,33

「ぶどう園と農夫」のたとえの家の主人が、自分のぶどう園を農夫に貸したので、農夫たちは安心して生活することができました。けれども、農夫たちは主人に感謝せず、契約に従わずに収穫の一部を主人に与えなかっただけではなく、主人の息子を殺して、借りていたぶどう園そのものを自分のものにしようとしました。このような振る舞いの結果として、収穫とぶどう園だけではなく、自分の命さえも失ったのです。

このたとえによってイエスは、イスラエル人の歴史と同時に、私たちの現実を描いています。私たちの命を始め、いろいろな能力と才能、また、私たちが生きているこの世界とその中にあるすべてのものは、神が創造して、私たち人間に与えてくださいました。神がそうなさったのは、私たちがそれらのものを神の望みに沿って用いることによって、永遠に残る実を結ぶことを求めておられるからです。この実というのは、私たち個人の完成と、神が創ってくださった世界の完成なのです。

残念ながら多くの人たちは、すべてを与えてくださった神に感謝して、神の望みに従って生きる代わりに、「ぶどう園と農夫」のたとえの農夫と同じように、自分がすべてのものの所有者であるかのように、神の望みを無視して、自分の野心や他の欲求や欲望をできる限り満たすために、いろいろなものを勝手に利用しています。そのような生き方は個人の滅びだけではなく、全世界の破壊にも繋がっているということが、はっきりと見えているのではないでしょうか。

このように生きている私たちは、まだ遅くない内に、自分の過ちとその結果に気づいて悔い改め、存在しているすべてのものの創造主であり、唯一の所有者である神の望みに従って生きるようになって、神が求めておられる実を結ぶことができますように祈りましょう。

全能永遠の神よ、
あなたの恵みは限りなく、
人の思いをはるかに越えて世界の上に注がれます。
わたしたちを罪の重荷から解放し、
まことの自由に導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

10月1日 年間第26主日 A年 (マタ21,28-32)

「お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。」エゼ18,25

自分が歩んでいる道は正しいかどうかということを確かめるために、どうすれば良いのでしょうか。それは当然ながら、目指している目標に近づいているかどうかを確認することです。もし、その道を歩むことによって目標に近づいているならば、この道は正しいですが、目標から遠ざかっているならば、正しくないということになります。

人生の場合も、同じことが言えると思います。自分の生き方が正しいかどうかということを判断するために、人生の目的を基準にしなければなりません。けれども、ここに問題があります。人生の目的がはっきりとしないために、多くの人が自分の欲求や欲望を基準にしてしまいます。従って、欲求や欲望を満たすことができるならば、正しい道を歩んでいると浅薄にも思っているのです。

誰でも体験していることだと思いますが、私たちの欲求や欲望は、互いに矛盾していたりして、私たちが求めていることは、必ずしも私たちにとって良いものであるとは限りません。また、欲求や欲望は満たされることによって消えるのではなく、段々と大きくなっていく一方です。そのために、それを道しるべにする人は、たまに満足感や喜びを味わうことがあっても、自分や他人を傷つけることがあるし、苦労してよく動いても、どこにも近づけずに、グルグル回っているだけです。

キリスト者が目指している目標は、はっきりしています。それは、キリストのような人になることなのです。従って、自分の生き方によって、少しずつキリストに似ているようになっているならば、安心してこの生き方を続ければいいわけですが、そうでないならば、この生き方を正して、キリストの道をただ眺めるのではなく、それを実際に歩む人にならなければならないのです。

全能の神よ、
あなたのゆるしは限りなく、
そのあわれみはすべてに及びます。
あなたを探し求める人に恵みを注ぎ、
永遠の喜びを与えてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。