9月24日 年間第25主日A年 (マタ20,1-16)

「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」マタ20,15

常識的に考えれば、二人の人が全く同じ仕事をしている場合は、長く働いた方がより大きな報酬をもらうことが正しいことですが、イエスのたとえの中に登場する労働者は、長く働いても短く働いても、皆全く同じ報酬をもらいます。一番長く働いた人が不満を言っても不思議ではないでしょう。

けれども、イエスは人間の正義について語るのではなく、神の正義について語っておられます。もし、神の正義感が人間の正義感と同じならば、誰が神の国に入り、神の命にあずかることができるのでしょうか。聖パウロが言っている通り、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」(ロマ 3,23)いるからです。

幸いに、神の正義は人間の正義と全く異なるものです。神にとって本当に正しいことというのは、善に相応しい報いを与え、悪に相応しい罰を与えるということではなく、神の望みが実現されることで、神の約束が成就されることなのです。

実は、永遠の命とは、人間の良い行いのための報いではなく、神の無償の賜物なのです。そして、聖パウロが言っている通り、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモ2,4)。要するに、神は気前の良い方ですので、この最高の賜物をすべての人に与えたいと望んでおられるのです。

私たちは、この賜物を受けているかどうか確認したいならば、自分の行いを見つめる必要があります。なぜなら、救いの賜物を受けるとは、神の愛と命と共に、神ご自身を受け入れること、神の愛の内に、神と共に生きることであるからです。従って、私たちの行いがどれほど、神と完全に一致しておられたイエス・キリストの行いに似ているかということを見分けることによって、私たちがどれほど神の賜物を受けているかということが分かるわけです。

ひとり子を与えるほど世を愛された父よ、
あなたは愛のおきてによって、
すべてを完成に導いてくださいます。
わたしたちが互いに愛し合うことによって、
人々にあなたの愛をあかしすることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

9月17日 年間第24主日A年 (マタ18,21-35)

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」マタ18,21-22

私たちは、自分の体を傷付けたら、この傷の大きさに応じて相応しい手当をしなければ、この傷が治らないし、私たちは普通の生活に戻ることができないと知っているので、その通りに手当するのは常識でしょう。

体の傷に関する常識は、残念ながら、精神的な傷に対しては常識になっていません。というのは、殆どの人は、精神的な傷を負わされた後に、この傷を手当する代わりに、この傷を軽んじたり、忘れようとしたりすることによってそれを放っておくか、この傷を負わせた体験をいつも思い起こしたり、これについていろいろな人に話したりすることによって、この傷を常にいじるか、どちらかだからです。両方の場合とも、傷が治らないし、私たちは、前の生活に戻ることもできません。おそらく、多くの人がこのような態度をとるのは、自分が出逢った悪があまりにも大きくて、相手をゆるすことも、受けた傷が治ることも不可能であると考えて、前の生活に戻る希望が持てないからでしょう。

確かに、精神的な傷の癒えることは、体の傷の癒えることよりも難しく、大きな努力や長い時間がかかることもありますが、私たちは、この傷やそれを負わせた苦しい体験をキリストの目で見ることができるならば、癒える過程を早めることができます。

キリストにとって最も大切な宝とは、父である神との愛の交わりでした。そして、イエスは神の愛をよく知っていたので、悪が人間からいろいろな大切なものを奪い取ることができても、決して神の愛を奪い取ることはできないし、神との愛の交わりを滅ぼすこともできないという確信を持っていました。それから、神はもっとも恐ろしい悪を、この悪の攻撃を受けた人との愛の交わりを深めるために用いることができると知っていました。ですから、イエスはどんな大きな悪と出逢っても、すべてを父である神にゆだねることができたがゆえに、受けた傷はすぐに治りましたし、イエスの愛、神に対する愛も、悪を行った人に対する愛も深まっていったのです。

天地万物を造り、治められる全能の神よ、
あなたの民を顧みてください。
わたしたちが救いの力を知り、
心を尽くしてあなたに仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

9月10日 年間第23主日A年 (マタ18,15-20)

「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」ロマ13,9

すべての人々が本能的に平和を求めているはずですし、昔から、大勢の人が個人的に、また、いろいろな組織をとおして平和のための活動を行ってきました。それにもかかわらず、この世から戦争や争いがなかなか消えないのです。人々が求めている平和というものが、そもそも実現不可能なのでしょうか。むしろ、平和の実現の方法が間違っているのではないでしょうか。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ 14,27)と言われたイエスは、普段人々が実現しようとしている平和と、ご自分自身が与えようとされる平和が、異なるということを教えてくださるのです。

「平和の君」であるイエス・キリストが自分の行いによって、私たちに与えたい平和への道を示してくださいました。イエス・キリストは、何の悪も行わなかっただけではなく、誰も無視せず、誰に対しても関心をもち、困った人には必要な助けを与えておられました。それから、自分に対して罪を犯した人や自分を傷つけた人を必ずゆるし、彼らにも必要な善を与えてくださったのです。要するに、キリストはただ自分の仲間や自分に役立つ人だけではなく、知らない人や恩返しのできない人や、自分に害を与えようとした人さえ愛しておられたわけです。

イエス・キリストがすべての人々に与えたい平和というのは、ただ戦争や争いのない状態、つまり、多くの人が実現させようとしているような表面的な安定だけではありません。それは、すべての人々が相互の愛によって結ばれて、自分のためだけではなく、他人のためにも善を求め、互いに支え合い、助け合う状態なのです。

キリストの愛と平和をいただいている私たちは、愛を実行して、助け合い、ゆるし合うことによって、キリストの平和を全世界に広めることができるように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたはキリストによってわたしたちをあがない、
神の子どもとしてくださいます。
あなたの愛を受けた民を顧み、
御子を信じる人々に、
まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。