9月3日 年間第22主日A年 (マタ16,21-27) 

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」マタ16,25-26

当然ながら、私たちは何かをやり出せば、成功したい、つまり自分で立てた計画を実現し、自分の行動の原動力となっている望みを満たしたいと思うでしょう。もし、成功することができないと分かってしまったら、要するに、自分の努力は必ず失敗で終わってしまうと前から分かったら、どうしますか。多くの人は、成功する可能性のない働きに意味がないと思って、最初からあきらめて、何もしないのではないでしょうか。

考えてみれば、私たちが一生懸命に働いて、多くの成功を治めても、何時か必ず死にます。もし、自分の働きによって、ただ自分の肉体的な面だけを生かそうとしたならば、私たちの死は、今までのすべての成功を無駄にするし、人生そのものが決定的な大失敗になるのです。

幸いに、人間には死で終わる肉体的な側面だけではなく、体が滅ぼされても、いつまでも生き続ける霊的な側面、つまり霊魂があります。私たちが、この霊魂を大切にして、生かすように努めるならば、死は人生の最大の失敗ではなく、私たちの人生が完成されるときになり、創造された目的に到達する瞬間となるのです。

イエス・キリストは、言葉と自分の生き方によって、霊魂を生かす方法を教えてくださいました。それは、自分の望みを満たすために、自分が立てた計画を実現するように働くのではなく、すべての人の善を求めておられる神の計画に沿って生き、神の計画の実現に向かって力を尽くして協力することです。言い換えれば、個人的な成功よりも、キリストのように自分が犠牲になっても、愛(他人の善を求めること)と神に対する誠実さを優先することなのです。

全能永遠の神よ、
あなたを愛する心をお与えください。
復活の信仰に生きるわたしたちが、
人々の中で、
絶えずそのあかしを立てることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

8月27日 年間第21主日A年 (マタ16,13-20)

「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」マタ16,15-16

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの質問に関して、シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。それは正しい答えでしたが、ペトロは自分自身が語った言葉の意味を、まだ正しく理解していなかったのです。

そのときペトロにとって、「メシア」は、政治的な支配者を意味していました。また「神の子」は、イスラエル人や神から特別な使命を受けた人を意味していました。ですから、メシアであり神の子であるイエスは、ペトロにとって、イスラエルの王になる使命を神から与えられた人を意味していました。イスラエルの王になる使命を神から与えられた人に従っていれば、自分がいつかその権力や富にあずかるという期待を持っても不思議ではないでしょう。けれども、そのような自己中心的な動機に基づいて、つまり自分の利益を求め、自分の計画を実現するためにイエスの仲間になる人は、途中、苦しみと出逢えば、ペトロと同じように自分を守るためにイエスを裏切り、イエスから離れる恐れがあるのではないでしょうか。

ペトロがイエスを裏切ったのは、とても悲しいことですが、ペトロはそれによって自分の弱さを知り、また、イエスにゆるされることによってイエスの愛の偉大さを知りました。そのときから、ペトロは自分が求めた目的や自分の計画ではなく、キリストが示してくださった目的に向かって、神の計画の実現に協力するようになりました。動機を変えたペトロは、最後までキリストに忠実に従い、彼の心が完全な愛で満たされたと同時に、彼の最も深い望みも実現されたのです。

永遠の父よ、
約束された聖霊を待ち望むわたしたちの祈りを
聞き入れてください。
移り変わる世界の中にあって、
わたしたちが心を一つにして愛のおきてを守り、
いつもまことの喜びに生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

8月20日 年間第20主日A年 (マタ15,21-28)

「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」マタ15,28

イエスの当時のユダヤ人たちは、異邦人たちがけがれた者で、神に近づくのに相応しくないし、祝福や恵みを願う権利もないと思っていました。けれども、考えてみれば実際に、完全に清い、つまり罪のない者で、神に近づくのに相応しくて、神から祝福や恵みを頂く権利のある人は、ユダヤ人を含めて誰一人としていないのです。

「婦人よ」と呼ばれた「カナンの女」は、自分の身分をはっきりと意識していたようです。なぜなら、彼女の立場をはっきりと表すイエスの言葉を侮辱として受け入れずに、何の権利もない人間として、ただイエスのいつくしみだけを頼りにして、愛する娘のために、謙虚にしかも忍耐強く、イエスの助けを願い続けたからです。

私たちは、命と愛の源であると同時に、永遠に続く最高の幸福の源である神に近づきたいならば、この女性と同じように、無限で絶対的な存在である神、宇宙万物の創造主であり、全世界の支配者である神の前での自分の身分、つまり、有限な存在で、被造物であること、自分がどれだけ小さくて、どれだけいやしいものであるかということを、はっきりと意識する必要があります。と同時に、神は、神と比較すれば無に等しい存在である私たちを、ご自分の子どもにしてくださったほどに、私たちを愛してくださる父であるということを忘れてはならないのです。

私たちは、畏れながらも大胆に、安心して、天におられる私たちの父である神に近づくことができますように。そして、いつも神との親しい交わりと神の祝福のうちに生きることができますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたを深く愛する心をお与えください。
すべてにおいてあなたを愛し、
人の思いをはるかに越えたしあわせに
あずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。