8月13日 年間第19主日A年 (マタ14,22-33)

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」マタ14,26-27

イエス・キリストは、宇宙万物の創造主である神の御ひとり子であり、御父からすべての権能を授かっておられる方でありますので、イエスの弟子になれば、もはや何の困難にも、何の苦しみにも悩まされることがないと思う人が大勢いるようです。このような期待を持っている人は、洗礼を受けた後に何らかの苦難と出逢えば、失望して、もはやイエスに信頼することができなくても、場合によってイエスから離れても、不思議ではないと思います。

確かにイエスは、私たちを悪から守ることを約束してくださいましたが、キリスト者を特別扱いして、絶対に悪と出逢わせないとか、苦しみを味わわせないとか、私たちのためにあらゆる問題を解決してくださるなどのような約束をしたわけではありません。

イエスの教会の礎になる使命、イエスを代表して地上に残された教会を指導する使命を与えられたペトロは、イエスに従った後にも、死に至るまでいろいろな危険や困難に逢ったり、いろいろな問題に悩まされたり、他に多くの苦しい体験をしたりしました。最初ペトロは自分の力にだけ頼っていましたので、危険や困難や苦しみに負け、そのためにイエスから離れたりしましたが、自分の力ではなくイエスを信頼するようになり、イエスの力に頼るようになると、ペトロは苦しい体験を、イエスから与えられた使命をよりよく果たすために、また、イエスとの絆を深めるために、利用することができるようになりました。そして、イエスを自分の命よりも愛するようになったペトロは、自分の殉教の死を完全な奉献に変えることによって、イエスから与えられた使命を全うするため、イエスと完全に一つとなるために利用することができたのです。

洗礼を受けることによってキリストの弟子、神の子となった私たちは、他の人と同じように、いろいろな困難や苦しみを体験することがありますが、私たちはペトロと同じように、悪から善を引き出す力を与えられていますので、どんな大きな悪に逢っても、この悪に負けることなく、イエスご自身、また、イエスの数え切れないほど多くの弟子と同じように、この悪を善に変えることができますように祈りましょう。

全能永遠の神よ、
わたしたちは、
聖霊によってあなたの子どもとしていただきました。
あなたを父と呼ぶわたしたちを、
約束された永遠のいのちに導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月30日 年間第17主日A年 (マタ13,44-52)

「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」マタ13,46

最高の幸福のためにどうしても必要だと思われるものは、そう思う人にとって最も価値の高い宝物になります。人によって、それは物質的な富や健康であったり、仕事や娯楽であったり、学歴、社会的な地位や権力であったり、また、他人に認められることや多くの友人がいることであったりします。

しかし、人間の最高の幸福のために何よりも必要なのは、神の国、すなわち、神との愛の交わりであるということを、宝と真珠についてのたとえによってイエスが教えています。

たとえに登場する、宝が隠されている畑を見つけた人と商人が、見つけた宝や真珠を手に入れるために、自分の持ち物を売ったように、神の国に入るために、言い換えれば、神との愛の交わりに生きるために、今まで自分の宝と思われたものを手放し、それの束縛から自由になる必要があるのです。

今までの生き方への執着が強ければ強いほど、その生活の中心になっていたもの、頼りにして来た物を手放すのは、難しいことです。それができるために、聖パウロと同じように、キリストの愛の素晴らしさと、「万事が益となるように共に働く」(ロマ8,28)神の力の偉大さを知るようになることによって、今まで自分の宝になっていたものを、現実的に見直す必要があります。要するに、この宝と思い込んでいたものは、今まで非常に役に立っても、思ったほど価値がないこと、思ったほど力がないこと、それなりに良い物であっても、ないよりはあった方がいいようなものであっても、自分の幸福のためにどうしても必要なわけではないこと、場合によって真の幸福を妨げるものであることを、認める必要があるのです。

信じる人の希望である神よ、
あなたを離れてはすべてがむなしく、
価値あるものはありません。
いつくしみを豊かに注ぎ、
わたしたちを導いてください。
過ぎ行くものを正しく用い、
永遠のものに心を向けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月23日 年間第16主日A年  (マタ13,24-43)

「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。」マタ13,27-28

私たちは、毎日のように苦しみや悪を体験しています。この世に悪が存在しているがゆえに、神は良い方であると信じることのできない人や、神の存在そのものを否定している人がいるようです。神を信じるためだけではなく、神を愛することができるためにも、悪の由来、また、神と悪の関係を知る必要があると思います。

「毒麦」のたとえを通してイエスが教えてくださるとおり、そもそも創造主である神が、悪を創ってはおられないし、悪の存在を求めてもおられないのです。けれども、麦を育てるために畑を作った人は、毒麦にも生える可能性を与えたように、神は、人間に最高の善を与えるためにこの世界を創造されたことによって、悪が存在することをも可能にされたのです。

神が世界を創造してくださった最終的な目的というのは、人間が愛によって神と結ばれて、神の命にあずかり、永遠に神と愛の交わりの内に生きることです。人間は愛することができるために、神から自由意志を頂きました。しかし、自由意志は人間に愛する可能性を与えるだけではなく、悪を行う可能性をも与えています。残念ながら人間は、「敵」に騙されて、神に背いてから、この世に悪が生まれ、この世に苦しみと死が入り込んだのです。

神が人間から自由意志を奪い取れば、確かに、人間は悪を行うことができなくなりますが、同時に愛することもできなくなるのです。結果的に、最終的な目的に達することができず、永遠に不幸になりますので、自由意志と共に愛する可能性を失うことは、人間にとって最悪であると言えます。

人間が自由意志という賜物の本来の目的に逆らって、悪を行っても、神はこの人を諦めませんし、愛し続けています。神はご自分の愛を示すことによって、この人の心の中でご自分に対する愛を起こそうとし、ご自分との一致へと忍耐強く導いてくだるのです。

恵み豊かな神よ、

あなたを仰ぎ見る民に、
聖霊を惜しみなくお与えください。
信仰、希望、愛に燃えて、
いつもあなたのことばに従うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。