7月16日 年間第15主日 A年 (マタ13,1-23)

「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」マタ13,8

イエスのたとえの種を蒔く人は、良い土地だけではなく、実を結ぶ可能性のほとんどないところにも大切な種をまきます。それは、この人が、蒔き方が下手であるためではなく、神の気前の良さ、神の賜物の与え方を示しているからです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタ 5,45)とイエスが教えてくださった通りに、神は、善人とか、正しい人、つまり神のたまものを大切にする人だけではなく、あらゆる人に命を与え、例外なしにすべての人を支えて、一人ひとりに必要な能力を与えてくださいます。神がそうなさるのは、すべての人を愛しておられるからです。神は、他の人が、また、本人さえもが知らなくても、一人ひとりの最も優れた能力を知っておられます。ですから、本人を含めて、もう誰も期待していない人からも、豊かな実を結ぶことを求めておられるのです。

すべての人の最も優れた能力というのは、「天の父の子となる」(マタ 5,45)こと、つまりイエス・キリストのような人になるということなのです。私たちがどの程度イエスに似てきたかということは、どれほどの実を結んだかということになります。したがって、自分をイエスと比較することによって、自分が何倍の実を結んでいるかということが分かるわけです。

もし、神が喜ぶように豊かな実を結びたいと望んでも、実際にはまだ実を結んでいない、それとも少ししか結んでいないならば、その原因を探す必要があります。そして、自分の成長を妨げるものをなくすようにするために、自分にできることをしなければならないのです。

神からいただいている、溢れるほど豊かな恵みに、心を込めて協力することによって、私たち一人ひとりが百倍の実を結ぶこと、つまりイエス・キリストのようになることができますように祈りましょう。

すべてを照らしてくださる神よ、
あなたは、
暗やみにさまよう人たちがまことの道に立ち帰るように、
真理の光を輝かせてくださいます。
洗礼を受けたすべての人が、
信仰に反することを退け、
キリストに従って生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月9日 年間第14主日A年 (マタ11,25-30)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタ11,28-30

日常生活で疲れて、安らぎを捜し求めている人が非常に大勢いるようです。その現状を踏まえて、いろいろな気晴らしやストレス発散の方法を商売にする人が増えています。

疲れている人のうちには、キリスト者になれば、安らぎを得られると考えている人もいるのでしょうか。むしろ、キリスト者になるためには、難しい勉強をしなければならないと思う人や、キリスト者になってからいろいろな義務を果たさなければならないと思う人もいるので、余計に疲れるだけだと心配している人の方が多いのではないかというような気がします。

確かに、キリスト者として生きるのは、気楽なことではありません。なぜなら、キリスト者は、自分の望みや欲望のままに生きるのではなく、イエス・キリストの望みに従って生きようとしているからです。自分の望みをキリストの望みに合わせることは、時に難しく、時に苦しいことです。

イエスは、ただ一時的な気晴らしやストレス発散ではなく、私たちの精神的な疲れやストレス、また、他の苦しみの原因となっている問題を、完全に決定的に解決することのできる方なのです。実は、キリストの望みは、私たちの望みに逆らうのではなく、逆に、私たちの最も深い望みを示すものなので、私たちは、イエスの望みに従って生きることによって、心の最も深い望みを満たすことになるのです。私たちは心の最も深い望みを満たさない限り、本当の安らぎを味わうことはありません。

もし、私たちがイエス・キリストを心から愛するようになるならば、自分の利益になると思うようなもののためではなく、イエスに対する愛のために彼に従い、彼に学ぶことでしょう。そうするならば、その「軛」は本当に負いやすく、その「荷」は本当に軽いということを体験することができます。そして、イエスの約束通りに、私たちの心の飢えと渇きが満たされて、一時的ではなく永遠に続く安らぎを、必ず得られるのです。

聖なる父よ、
あなたは、倒れていた世界を、
キリストの死によって
新しいいのちに立ち直らせてくださいました。
信じる者を罪の束縛から解放し、
終わりのない喜びにあずからせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月2日 年間第13主日A年 (マタ10,37-42)

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」マタ10,37–42

イエス・キリストはすべての人の救いのために、すなわち、すべての人々が父である神の愛の招きに応じて、神の愛を受け、神に自分の愛をささげることによって、神と結ばれ、永遠に神との愛の交わりに生き、神の至福にあずかるために十字架を担って、十字架上でご自分の命をささげてくださいました。このような死を含めてイエス・キリストの人生全体を見ると、愛するとは、自分の命を含めて自分のすべてを、他の人の真の善と真の幸福のためにささげることであるということが分かると思います。

自分の十字架を担ってイエスに従うとは、イエスと同じように、どんな状況においても愛に生きること、つまり、順境においてだけではなく、逆境においても、愛に喜びが伴うときだけではなく、愛に悲しみや苦しみが伴うときにも愛に忠実に生き、自分の身内や自分のことを愛して、自分のために善を行う人のためにだけではなく、他人や自分を憎んで、悪を行う人のためにも、できる限りの善を行い続けることなのです。キリストの弟子は、このように生きるときだけ、愛において成長し、完成されて、イエスご自身と同じような人間となり、イエスの弟子としての目的に辿り着くことができる、つまり、父である神と一つになることができるという意味で、「イエスにふさわしい」人なのです。

このような生き方は非現実的なものや、非常識的なものに見えても、宇宙万物の創造主の御ひとり子として人間のことを誰よりもよく知っておられると同時に、人間を誰よりも強く愛しておられるイエス・キリストが、それを私たちに求めておられるならば、人間にとって可能な生き方であるだけではなく、最高の生き方でもあるという確信を持つことができるのです。

ますます多くの人々が、イエスを信頼して、イエスの呼びかけに応え、イエスのように生きることによって父である神の愛の招きを受け、神ご自身と神の招きを受けた他の多くの人々とともに、この世においても、死を超えても、完全な愛の交わりのうちに永遠に生きることができますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたはわたしたちを選び、
光の子としてくださいました。
わたしたちが罪のやみに迷うことなく、
いつも真理の光のうちに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。