待降節第2主日A年 (マタ3,1-12)

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」マタ3,2

人間は個人として、また、人類全体として、平和とか幸せとかを求めて、そのために一生懸命に努力しています。けれども、なかなかそれを実現することができないのが、私たちの現状ではないでしょうか。そういった現状の要因はいろいろあるのでしょうが、その内の一つは、人間の傲慢ではないかと思います。失敗の繰り返しの長い歴史があっても、人間はなかなか自分の限界を認めようとしませんし、いわんや賢くなることもないのです。この限界とは、人間が自分の力だけでは、心の中で求めている平和や幸福を得ることができないがゆえに、すべての人々を愛し、すべての人のために永遠に続く平和と幸福を求める父である神、創造主であり、全能者である神の助けを、私たちは必要としているということなのです。

自分の限界を認識した上に、神の助けの必要性を認めて、この助けを願い求め、それを受け入れるために心を開くことこそ、一人ひとりにとって、また、人類全体にとって、最も必要な回心であり真の知恵なのです。

父である神は、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じ(マタ 6,5-8)ですので、もうすでにイエス・キリストを通して、真の平和と幸福のために必要なものをすべて準備してくださいました。ですから今、イエス・キリストを信じることによって、つまり、イエスの言葉を受け入れ、イエスの模範に倣って生きることによって、私たちは永遠に続く平和と幸福に向かって歩むことができると同時に、その実現に協力し貢献することもできるのです。

恵み豊かな神よ、
御子を迎えに急ぐわたしたちが、
あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、
キリストに結ばれることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第1主日A年 (マタ24,37-44)

「イエスが言われた。『あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」マタ24,44

砂漠の真ん中で箱舟を作っていたノアがいろいろな人に嘲笑されましたが、ノアはこの人たちの笑いを気にせずに、神の言葉をひたすら信頼して、洪水に備え準備し続けました。神の言葉を無視して、自分の欲望や望みにだけ従って生きていた人にとって、洪水は滅びの瞬間になりましたが、ノアにとっては同じ洪水が神の言葉の実現と救いの時となったのです。

キリスト者である私たちは、ノアと同じように他の人が全然考えていない出来事のために準備をしています。この出来事というのは、キリストの再臨です。キリストの再臨のために準備するということは、決して箱舟のようなものを作ることではありませんが、ノアが箱舟を作ることによって他の人を驚かせたように、私たちもこの準備をすることによって他の人を驚かせることがあるでしょう。なぜなら、キリスト者がキリストの来臨のために準備するに当たって、「仕えられるためではなく、仕えるために」来られて、何よりも神の国とその義を求めるように教えてくださったキリストに従って、また、神と隣人だけではなく、敵さえをも愛するように教えてくださったキリストに倣って生きることによって、キリスト者は与えられている使命を果たしながら、キリストとの絆を深めるので、図らずもキリスト者の生き方は、現在流行している生き方や常識に逆らうものになっているからです。

お金や権力を手に入れて、自分の欲望や望みを満たすことによって人生を楽しむことが、何よりも大切なことであると考えている人にとって、キリスト者の生活は愚かなものに見えるかもしれません。しかし、この生き方こそが、どんな状況においても消えることのない希望、喜びと平和に満ちた生き方であると同時に、人間の最もすぐれた能力、つまり、愛する能力を発展させることによって、愛の完成へと導く生き方なのです。

全能の、神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、永遠の国を受け継ぐことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第26主日C年 (ルカ16,19-31) 

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」2コリ8,9

お金そのものは、決して悪いものではありませんし、お金を全然持っていないよりは、持っていた方がいいに決まっています。けれども、お金を持っている時、特に必要以上に持っている時には、それに伴う危険性を意識して、害を受けないように気を付ける必要があると思います。

お金に関する危険性は沢山あるでしょうが、その内の一つについてだけ考えてみたいと思います。お金は、それを持つ人にいろいろな可能性を与えますが、その全ての可能性がこの人を生かすようなもので、この人を本当の幸せに近づかせるようなものであるわけではありません。そのために、いろいろな可能性の中から、正しい可能性を選ぶための確かな基準が必要です。

このような基準がなければ、お金を持っている人は、心の本当の飢え渇きを満たすために必要なものというよりも、単にお金で買えるようなものを求めるようになり、お金で買うもので満たすことのできない心の望みを無視し、自分の欲望を優先してしまう恐れがあるのです。

そうなると、お金で買えるようなもので欲望を満たし、一時的に満足を得て喜びを感じることができますし、暫くの間、飢え渇く心の叫びが聞こえなくなります。けれども、このような気持ちが過ぎたら、満たされたはずの欲望は前よりも大きくなりますし、心の飢え渇きも大きくなるのです。そのために、少しでも満足や喜びを楽しめるように、また、心の叫びを聞こえなくするように、ますます沢山のものが必要になりますので、このように生きている人は、贅沢しても沢山のものを集めても、本当の豊かさ、つまり、心を満たし人間に真の幸福を与える豊かさを、知らずに生きることになるわけです。そのような態度を変えない人は、集めたものを何時か必ず失いますが、心の飢え渇きは永遠に満たされないままに残るのです。

裕福な人も貧しい人も、イエスの模範や教えを基準にして生きることによって、心が満たされ、本当に豊かで幸せな人生を送ることができますように祈りましょう。

全能の神よ、
あなたのゆるしは限りなく、
そのあわれみはすべてに及びます。
あなたを探し求める人に恵みを注ぎ、
永遠の喜びを与えてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。