復活節第6主日B年 (ヨハ15,9-17)

「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」ヨハ15,10

イエスと出会うことによって神の愛を体験した人の心には、イエスのように愛したいという望みが生まれることがよくあります。この望みは、人生を照らし、それに素晴らしい目標と意義を与え、大きな喜びの源となります。けれども、イエスのように愛に生きることを強く求めても、全力を尽くして愛するように努力しても、なかなか思い通りに行かないのが殆どです。

こうして、自分の望みと自分の現実との間には緊張が生まれます。この緊張は、今まで知らなかった苦しみを生み出します。この苦しみを和らげるために、イエスのように愛することが不可能であると決めつける人がいます。確かに、この望みを非現実的なものであると思うようになって、それを諦めれば楽になりますが、同時にこの人の愛も成長することができなくなりますし、結果的に本当にイエスのように愛することができなくなるのです。

イエスが私たちに向かって、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ15,12)と言われたならば、私たちには、必ずそのような能力があるということです。この能力を生かして、イエスが愛したように愛するようになるために、まずイエスの言葉が本当に可能な目標を示していると信じて、その目標と今の現実とのギャップが生み出す苦しみを受け入れる必要があります。それから、たとえそれを自分が求めている愛と比較して、今の自分の愛は小さくて無に等しいものであると思っても、今自分が持っているこの小さな愛の実践に心がける、つまり、慌てずに、イエスの教えに一歩ずつ従って生きる必要があるということなのです。

全能の、神である父よ、
復活された主イエスの記念を真心こめて祝います。
この喜びを、
わたしたちが日々の生活の中に保つことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活節第5主日B年 (ヨハ15,1-8)

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」1ヨハ3,18-20

回心する前にファリサイ派に属していたパウロは、他の多くの人よりも律法を知っていましたし、他の多くの人よりも律法の定めに忠実に生きていました。それゆえに、パウロは、他の人よりも優れていると思って、自分が完璧な人間であるという自信を持っていたのです。

けれども、その時のパウロは律法の文字に忠実であっても、律法の精神から遠く離れていました。彼の生活には強い正義感があっても、愛やいつくしみが全然ありませんでした。律法を守らない人を厳しく罰することができても、人の弱さを理解することや、人の過ちをゆるし、人を力付け、正しい生活に導くことができませんでした。結果的にパウロは、神のみ旨に従って生きようと思っても、実際には神に逆らって生きていて、神の味方であるつもりであっても、実際には神の敵となっていたのです。

イエスと出会ってからパウロの生活が全く変わりました。確かに、イエスとの出会いは、彼にとって苦しいことでした。なぜなら、その時、自分自身がどれほど自分自身を騙していたか、どれほど現実から離れていたかという事実が分かったからです。それと同時に、パウロにとってイエスとの出会いは大きな希望と喜びの源にもなりました。その時から、パウロはもはや自分の力に頼らず、イエスが現してくださった神の力、特に神の愛といつくしみに頼るようになりました。イエスと繋がって生きるようになったパウロは、他人に対する態度も変え、彼の心が神ご自身の心のように広くなりました。そのような生活によって、彼が本当に神を知っているということ、本当に神の子になったということを表していたのです。

私たちもパウロのように、私たちの心よりも大きな神の愛に力付けられて、自分の現状を知り、神のいつくしみに頼ることによって、神の愛に生きることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは、キリストによってわたしたちをあがない、
神の子どもとしてくださいます。
あなたの愛を受けた民を顧み、
御子を信じる人々に、
まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活節第4主日B年 (ヨハ10,11-18)

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」1ヨハ3,1

普段人間が羊を飼うのは、その毛や肉や乳などのため、要するに、自分の利益のためです。羊飼いたちが、羊のために時間をかけて、力を尽くして一生懸命に働くことがあっても、それは最終的に、この利益をより大きくするためなのです。良い羊飼いであると宣言されたイエスは、ご自分のために何の利益も求めないだけではなく、この羊、つまり私たちのために、ご自分の命をささげてもくださるのです。

何の利益も求めず、自分より弱いもののために命を懸ける人がいるかもしれませんが、イエスは私たちのために、誰にもできないようなことをされました。それは受肉です。つまりイエス・キリストにおいて、神ご自身が人間となられたということなのです。確かにそれは、羊飼いが自ら羊になったような、非常に信じがたいことですが、私たちにとって何よりも大切なことなのです。なぜなら、御言葉である神の子が人間になったがゆえに、今私たちが神の子になり、神の命にあずかるようになって、神の家族の一員になれるからです。それこそ、私たちの救いですし、イエス・キリストがご自分の命をささげていいと思われたほど価値のあるものなのです。

この救いは無償の賜物ですが、それを受け入れるために、羊が羊飼いに従うように、私たちはイエスに従わなければなりません。イエスに従うためには、私たちが命を犠牲にする必要性がなくても、今まで大事であると思って力を尽くして手に入れようとしたもの、手に入れてから奪われないように注意を払ってきて結果的にいつも執着しているものを、手放す必要があるでしょう。ですから、イエスを愛している時だけ、つまり、イエスとの繋がりがこの世において最も大切な宝であると確信している時だけ、私たちは救いにあずかることができるわけです。

全能永遠の神よ、よい牧者キリストは、
わたしたちのためにいのちをささげてくださいました。
キリストの声に従うわたしたちがあなたの国に導かれ、
聖人とともに喜びを分かつことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。