復活節第3主日B年 (ルカ24,35-48)

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」ルカ 24,46-47

私たちが抱いている恐れや怒り、また、妬み、絶望、不正な扱いを受けている感じや無力感などのような感情は、殆どの場合、苦しい体験をして、過去に負わされた傷がもたらすものなのです。このような感情によって、古い傷が私たちを支配しています。そのために、正しいと思うことを実行することができないし、逆に正しくないと思うことをやってしまうことがあるのです。多くの人が過去の苦しい体験を忘れようとしていますが、この体験を忘れることができても、それによって負わされた傷が癒されない限り、私たちは自由に、喜びと平和の内に生きることができないのです。

復活されたイエスは、私たちにご自分の平和を与えながら、この平和を受け入れる方法を教えています。イエスが自分の傷を弟子たちに見せることによって、私たちも自分自身の傷をイエスに見せるように呼びかけています。私たちは、自分の傷を隠すことによってではなく、それを癒すことのできる方に見せることによって、本当の癒しの過程が始まるのです。

神がイエスご自身の苦しみと傷を全ての人の救いに変えてくださったように、私たちの苦しみから神は善を引き出すことができます。私たちの苦しい体験から悪だけではなく、善も生じていることに気が付くならば、私たちは神の働きを確認することができます。この体験によってイエスに対する信頼が深まるし、私たちの癒しが進みます。傷が癒されれば癒されるほど、加害者をゆるすことが当然のことになります。イエスがご自分を十字架に付けた人々をゆるしたように、私たちも心から自分の加害者をゆるすならば、イエスが与えてくださる平和を受け入れることができるのです。

すべてを導かれる神よ、
教会は新しい民を迎えて若返り、
喜びに満たされています。
あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたちが、
感謝のうちに救いの完成を待ち望むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活節第3主日B年 (ルカ24,35-48)

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」ルカ 24,46-47

私たちが抱いている恐れや怒り、また、妬み、絶望、不正な扱いを受けている感じや無力感などのような感情は、殆どの場合、苦しい体験をして、過去に負わされた傷がもたらすものなのです。このような感情によって、古い傷が私たちを支配しています。そのために、正しいと思うことを実行することができないし、逆に正しくないと思うことをやってしまうことがあるのです。多くの人が過去の苦しい体験を忘れようとしていますが、この体験を忘れることができても、それによって負わされた傷が癒されない限り、私たちは自由に、喜びと平和の内に生きることができないのです。

復活されたイエスは、私たちにご自分の平和を与えながら、この平和を受け入れる方法を教えています。イエスが自分の傷を弟子たちに見せることによって、私たちも自分自身の傷をイエスに見せるように呼びかけています。私たちは、自分の傷を隠すことによってではなく、それを癒すことのできる方に見せることによって、本当の癒しの過程が始まるのです。

神がイエスご自身の苦しみと傷を全ての人の救いに変えてくださったように、私たちの苦しみから神は善を引き出すことができます。私たちの苦しい体験から悪だけではなく、善も生じていることに気が付くならば、私たちは神の働きを確認することができます。この体験によってイエスに対する信頼が深まるし、私たちの癒しが進みます。傷が癒されれば癒されるほど、加害者をゆるすことが当然のことになります。イエスがご自分を十字架に付けた人々をゆるしたように、私たちも心から自分の加害者をゆるすならば、イエスが与えてくださる平和を受け入れることができるのです。

すべてを導かれる神よ、
教会は新しい民を迎えて若返り、
喜びに満たされています。
あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたちが、
感謝のうちに救いの完成を待ち望むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活の主日 (ヨハ20,1-9)

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロ3,1-2

使徒たちの中で、ゼベダイの子ヨハネと思われる、「イエスが愛しておられたもう一人」の弟子だけが最後まで、つまり十字架のもとまでイエスに従いました。そのようなことができたのは、他の使徒よりもイエスを強く愛していたからでしょう。苦しめられる恐れや命を失う恐れを乗り越えるために必要な力をもたらした、イエスに対するこの大きな愛のゆえに、ヨハネはキリストの死のために他の使徒よりも深く悲しんだのではないかと思います。

そんなヨハネにとってイエスの復活は、どんな意義をもったのでしょうか。恐らく、それは何か宗教的なことや神学的なことよりも、もう絶対に会うことのできないと思われた一番親しい人、自分の命よりも大切な友との再会が、可能になったということだったのではないかと思います。復活されたイエスと出会ったヨハネはどんなに喜んだことでしょうか。

そして、それよりも素晴らしいことがありました。普段はどんなに深い友情であっても、どんなに美しくて、あらゆる困難を乗り越えることのできるほど強い愛であっても、それには必ず死別による終わりがあります。しかし、復活されたキリストはもう一度死ぬことがありませんので、いつまでもヨハネと共にいることができます。それはもう何も、死さえもイエスと再会したヨハネを、イエスから引き離すことができないということになるわけです。愛する人にとってそれ以上に素晴らしいこと、それ以上に喜ばしいことがあるのでしょうか。

イエスを信じるとは、イエスを愛することであって、イエスと永遠の絆で結ばれることなのです。イエスを信じている人は、ヨハネや数え切れないほど多くのキリスト者と共に、聖パウロの次の言葉を述べることができると思います。すなわち、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8,38-39)と。

これこそ永遠の命であり、最高の幸福と喜びなのです。

全能の神よ、
あなたは、きょう御独り子によって死を打ち砕き、
永遠のいのちの門を開いてくださいました。
主イエスの復活を記念し、
この神秘にあずかるわたしたちを、
あなたの霊によって新たにし、
永遠のいのちに復活させてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。