復活節第5主日A年 (ヨハ14,1-12)

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ヨハ14,1

おそらく、私たちは自分の心の奥深いところを正直に見つめることができるならば、そこにはいろいろな恐れ、不安、悩み、わずらいなどのようなものを見出すのではないかと思います。その内には、私たちが過去に行った悪や、現在の私たちの悪いところがもたらす恐れや悩みがあり、また、未来に体験するかもしれない損害、病気や他の苦しみ、あるいは、必ず訪れてくる死に対する不安やわずらいもあるはずです。

そのような恐れ、不安、悩みやわずらいは、大きな苦しみですので、それを無くしたいと望むこと、また、実際にそれを無くするためにいろいろと試みるのは、当然です。けれども、その試みが一時的に成功したとしても、この恐れ、不安、悩み、わずらいは、必ず舞い戻ってくるだけではなく、大きくなることさえもあるのではないでしょうか。

そんな現実に生きている私たちのところにイエス・キリストが来て、「心を騒がせるな」と呼びかけて、私たちをこのような苦しみから解放することを約束してくださいます。そして、この約束を実現するために、イエスは私たちにご自分の愛を与えてくださるのです。

イエスは、誰よりも私たちが過去に行った悪や現在の私たちの悪いところ、それから、未来に行う悪を知っておられるにも関わらず、誰よりも私たちを強く愛しています。私たちのためにご自分の命を与えるほど愛しています。イエスの復活を思い出すと、イエスの愛は、私たちの罪、私たちの中にある悪よりも強いものであるだけではなく、死よりも強いものであるということも分かります。ですから、イエスの愛を受け入れ、それを自分の最も大切な宝物にするならば、私たちは、あらゆる恐れ、不安、悩み、わずらいから解放されます。そして、イエスご自身と同じように、自分の心の最も深い望みに従って、愛に生きることができるようになるのです。

聖なる父よ、
あなたは、キリストによってわたしたちをあがない、
神の子どもとしてくださいます。
あなたの愛を受けた民を顧み、
御子を信じる人々に、
まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

5月7日 復活節第4主日A年 (ヨハ10,1-10)

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」ヨハ10,3-5

イエス・キリストが私たちの羊飼いであるとは、私たちを永遠の命の泉、つまり、私たちの創造主であり、父である神のもとへと導いてくださるということなのです。羊飼いの一つの特徴は、他の動物の飼い主のように、飼っている動物を縛ったり、引っ張ったり、突き棒で突いたりせず、羊の群れの先頭に立つことです。このような羊飼いの特徴は、イエスが私たちの羊飼いであるという象徴的な言い方に、特別な意味を持たせます。それは、イエスが私たちの自由意志を尊重しておられるがゆえに、私たちを導くにあたって、私たちを強いたり無理させたりするようなことを、絶対になさらないということなのです。私たちは、従いたいときにだけ、自由にイエスに従い、また、従いたくないときには、従わないという選択も可能です。

けれども、実際にイエスに従いたいときに一つ大きな問題があります。それは何かというと、私たちの善を求めておられるイエスだけではなく、私たちの不幸を求めている人や私たちを利用しようとしている人々も、私たちに呼びかけているということなのです。このような雑音の中でイエスに従うためには、イエスの呼びかけを識別する必要があります。そして、この識別を正しくできるためには、イエスの声をよく知らなければならないのです。

どのようにすれば、イエスの声を知ることができるのでしょうか。イエス・キリストは、神の言葉です。ですから神の言葉である聖書を読むこと、聖書の言葉に耳を傾けることによって、イエスの声を知ることができるはずです。けれども、聖書を読んでも、間違った解釈に基づいて、間違った結論を出す危険性、つまり、聖書の作者である聖霊の意向と同時に、聖霊と一致しておられるイエスの意向に、逆らうような結論を出す恐れがあります。その場合は、イエスの声を知っていると思い込んで、イエスの声に聞き従うつもりであっても、実際には強盗に従う危険性があるのです。

このような危険性を避けるために、聖書を読むときには、聖霊によって生かされているイエスの体である、教会の正式的な教えを基準にする必要があります。もし自分の結論が、教会の教えに反するようなものであるならば、間違っているのは教会ではなく、自分自身であるということを素直に認めて、自分の結論を手放さなければなりません。このような意味での謙虚な心を持って聖書を読むときだけ、イエス・キリストの真の声を知り、日常生活においてそれを識別し、安心して従うことができるのです。

全能永遠の神よ、よい牧者キリストは、
わたしたちのためにいのちをささげてくださいました。
キリストの声に従うわたしたちがあなたの国に導かれ、
聖人とともに喜びを分かつことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活節第3主日A年 (ルカ24,13-35)

「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」ルカ24,25-27

救いの決定的な出来事が起こったエルサレムからエマオに逃げていた弟子たちは、人類の歴史において最も偉大な出来事、すなわちキリストが救いのわざを成し遂げておられたことを体験しても、何も分からなかったし、その出来事の偉大さを少しも感じることなく、彼らの心は恐れと絶望感に満たされていたのです。

彼らが神の賜物であったこの素晴らしい体験を全く無駄にしてしまったのは、この出来事をモーセと預言者、つまり神の言葉に基づいて理解する代わりに、自分たちの勝手な期待や想像、また、手前勝手な考えに基づいて理解しようとしていたからです。その彼らは、神の言葉に基づくイエスの説明を聞いたときに心が燃え始め、イエスと共に食事をしたことによって、自分たちの人生の中で体験した神の働きを初めて理解することができました。それゆえに、彼らは絶望感と恐れから解放されて、大きな喜びと勇気で満たされたのです。

私たちは、感謝の祭儀の中で神の言葉を聞き、イエスと食卓を囲みますので、ミサに参加することによって、この弟子たちと同じような体験をすることができます。私たちは、いつもイエスと共に歩みながら、神の言葉に耳を傾け、イエスの教えに基づいて自分たちの体験や世界で起こっている様々な出来事を理解することによって、いろいろな不安や患いから解放され、いつも大きな喜びと希望で満たされますように祈りましょう。

すべてを導かれる神よ、
教会は新しい民を迎えて若返り、
喜びに満たされています。
あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたちが、
感謝のうちに救いの完成を待ち望むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。