キリスト者の祈り

キリストの名によって祈る

イエス・キリストは、弟子たちに向かって祈りについて語られたときに、「ご自分の名によって祈る」ことの重要性を強調しておられました。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハ16,23-24)。残念ながら、多くのキリスト者がこの言葉を誤解して、「キリストの名によって祈ります」という言葉を自分の祈願に付け加えておけば、必ず自分が求める通りになると思っているようです。つまり、この言葉には、何らかのマジック的なパワーがあるかのように考えているということになるでしょう。けれども、イエスの教えやキリスト者の信仰は、マジックと何の関係もないのです。キリスト者の信仰と同時にキリスト者の祈りの本質は、自分の望みをかなえるための何らかのパワーや他の非人格的な力ではなく、キリストとの、また、キリストによる父である神との人格的(ペルソナ的)な関係なのです。

聖書において「名というものは、その人の本質、その人自身、その人の生き方を表します」(カトリック教会のカテキズム203)。「イエス・キリストの名によって語る」とは、イエスご自身を代理して語ることを意味します。つまり、「イエス・キリストの名によって語る」人は、イエスに遣わされて、イエスの望みに従って、イエスご自身の言葉を述べ伝えるということです。同じように、「イエス・キリストの名によって祈る」とは、自分の勝手なことを願い求めるのではなく、自分の心や思いをイエスと一つにして、イエスご自身が求めることを求めて祈ることです。ですから、イエスの名によって祈るために、イエスに倣って、イエスが祈ったように祈る必要があります。したがって、イエスに向かって、「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ 11,1)と願うのは、祈りの言葉を教えていただくことというよりも、祈りの模範を示していただくこと、正しい祈り方、父である神との正しい接し方を教えていただくことを願うことなのです。

イエス・キリストの模範

 福音書が表しているイエスの祈りの姿を見ると、イエスが一人で祈ることがあれば、ご自分の弟子やユダヤ教の信徒という共同体と一緒に祈ることもあるし、 他人のために祈ることがあれば、自分のために祈ることもあったということが分かります。イエスは一日中働いて、非常に疲れていても、夜誰もいないところに行き、一人になって、徹夜して祈るところを見ると、イエスにとって祈りは、安らぎの場、力の源であったということが分かります。また、多くの弟子の中から十二人の使徒を選ぶ前とか、受難を受ける前に、すなわち重要な決断する前にも、皆が寝ているときに祈られたところを見ると、イエスにとって祈りは、正しい決断をするための知恵の源、また、父である神の望み、神の導きを見分けるところであったということも分かります。

殆どの場合は、イエスが祈ったということしか伝えられていないが、受難を受ける前にゲッセマネの園でのイエスの祈りの内容、イエスが言われた言葉が伝えられていますので、この祈りは、イエスの祈り方を知るために特に大事なものになるのです。福音記者聖マルコは、この言葉を次のように伝えています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マコ14,36)。この言葉から、まずイエスの祈りの対象が分かります。イエスは、神のことを「アッバ」と呼ばれます。「アッバ」ということばは、幼い子どもが自分のお父さんに対して用いた言葉で、「パパ」に当たる言葉です。ですから、この言葉をもって神に向かったイエスは、小さい子どもが自分のお父さんを絶対的に信頼しているように、父である神を絶対的に信頼していたこと、また、神との非常に親しい関わりをもって、親密の内に神と接していたということが分かります。同時に、イエスにとって神は、「何でもおできになる」方、つまり全能者、また、絶対者であったということも分かります。

「この杯をわたしから取りのけてください。」という言葉を通して、イエスは自分の本心をありのまま表現しています。つまり、詩編やイザヤ書に詳しく描かれていた苦しみと残酷な死を非常に恐れていて、これを避けたいという自然な望みを父である神に伝えています。多くのキリスト者が、日常的な悩みを置いておいて、何の悩みや怖れなどがないかのように、何の雑念もない静かな心をもって神の前に立つことが理想であるようですが、イエスの祈り方を見ると、イエスは、自分の悩みや怖れなどを祈りの「材料」にしておられたということが分かります。つまり、イエスは、何らかの教えや思い込みに従って、神の前に「あるべき姿」を見せていたのではなく、神の前に自分の気持ちを正直に表し、ありのまま自分の姿を見せていたということなのです。

けれども、イエスは、自分の気持ちとそれに基づく自分の願いを正直に伝えてから、それに頑固に拘るのではなく、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」という言葉を付け加えて、自分の望みを満たすことよりも、父である神の望みが満たされることの方が重要であり、自分の望みの実現よりも、神の望みの実現を強く求めているということを表現されるわけです。イエスがこのように考えられたのは、ご自分のことを愛しておられる上に、正しいことを間違いなく知っておられる神の導きに従うことは、最も賢明なことであるという確信を持っておられたからでしょうが、それだけではありません。ご自分の意志よりも、父である神の意志を優先して、ご自分の意志やご自分の望みを神のみ旨に合わせることによって、父である神との一致を保ちたいと望んだからです。この望みこそがイエスにとって、自分の望みの実現よりも、神の望みの実現を強く求める最も大事な理由でした。イエスは、この理由をいろいろな仕方でたびたび表していましたが、ヨハネによる福音書に書き記された言葉、イエスが父である神に向かって語られた言葉が、その一つです。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハ17,21)。

考えてみれば、イエス・キリストの最も大切な宝とは、やはり父である神の愛であったし、この愛による神との繋がりを何よりも大事にしておられ、この愛の絆の完成である神との一致は、人生の目的であり、最高の幸福であるという確信をもって生きていました。また、イエスは、愛における神との交わりと、その完成をご自分が愛しておられたすべての人のために、切に求めておられたのです。神ご自身によって救い主としてこの世に遣わされた自分が、どんな状況においても神の愛に忠実に生き、神との愛の交わりを保つならば、人間としてその完成に永遠にあずかるようになるのみならず、神との愛の交わりに生きること、さらに、その交わりの完成にあずかることは、すべての人にとって、可能になるという確信を持っておられました。したがって、イエスは、自分のためだけではなく、すべての人のためにも、自分の意志や望みを神のみ旨に合わせておられたのです。それは、決して簡単なことではありませんでした。ヘブライ人への手紙の中で書き記されている言葉が、その大変さをよく表しています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブ 5,7)。

以上の考察をまとめると、イエスにとって祈るとは、ご自分を愛しておられる父である神との完全な一致を目指して、神と対話すること、交わること、コミュニケーション(この言葉が由来しているラテン語の言葉は「他人と自分を分かち合う」という意味をもつ)をすることであったと言えると思います。

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