導入

心の傷の癒しの重要性とゆるしの必要性を強く意識しましたので、それについて勉強したり、考えたり、いろいろな人と話しをしたりしました。やがて、学んだことを修道生活を始めようとしていた志願者や修練士、また、多くの修道女にも伝える機会を与えられました。これから心の傷の問題やこの傷の癒しの過程について学んだことを紹介しますが、その前に、この問題に私を導いた道について分かち合いたいと思います。

幼児洗礼を受けた私にとって信仰は、凡そ17年間、私の生き方に殆ど何の影響も与えなかったし、喜びや力の源というよりも、大きな重荷でした。17歳で、イエスが実際に生きておられる方であり、私を愛し、ご自分に従ってほしい、協力してほしいということを体験しました。その時から、イエスとともに生きるようになって、信仰は私を生かすものになりました。この体験によって、祈ることや、聖書を読むこと、ミサに参加することは、イエスと実際に接することになり、イエスとの関係は段々と深くなっていきました。先ず結婚して、イエスとの交わりの中で体験していた愛を家庭の中で実践し、妻や子どもに伝えるだけではなく、周りの人々にも伝えようと思いましたが、宣教師、それから司祭になったら、この愛をもっと多くの人に伝えることができるという思いが段々と強くなりました。このような望みを与えることによってイエスが私をこの道に招いてくださっていると判断しましたので、宣教師になるために宣教修道会である神言会に入会しました。

修練期中に、イエスのことをもっと深く知り、イエスの現存とイエスの愛をもっと強く感じるようになりましたので、イエスに対する私の愛はますます熱く燃えていました。イエスとの生活に関して、私の期待が非常に大きくなっていた時にある講話の中で修練長は、「今皆さんは燃えていますが、修練期が終わったら、段々と冷めるので、この時期をよく味わいなさい。」というような言葉を述べました。いくら修練長を尊敬していても、この言葉を受け入れることができませんでした。なぜなら、愛がどれほど大きくても、これ以上に大きくなれるもので、どれほど素晴らしいものであっても、それ以上に素晴らしいものになれる、つまり永遠に発展するものであると確信していたからです。

けれども、後5年間ほど、大きな愛と喜びを味わいながら、イエスとの生き生きとした交わりのうちに生きていて、イエスに対する愛が強く燃えつづけましたが、突然すべてが終わりました。それは、20年以上前のことですが、今でも、その瞬間の自分の感覚を覚えています。それは、その時まで自分が立っていた硬い土台がいきなり消えて、私は底のない暗い淵に落ち始めたような感覚でした。この土台とは、言うまでもなくイエスでしたので、イエスが死んだとか、私から離れたなどのように強く感じて、パニックになって、失いそうな命を守ろうとしました。けれども、自分を生かそうと努力すればするほど、状態が悪くなっていっただけでした。結果的にうつのような状態になりました。それは3年以上続きました。この間は、自分の責任を最低限程度しか果たすことができませんでした。後は、寝るばかりでした。この状態が続くと精神病にでもなるのではないかと心配して、ポーランドに戻ったら、何とか立ち治ると思いましたので、必要な手続きを始めました。ポーランドに戻っていいという手紙が来て、それを読んだ後に、自分を守るために、沈んでいる船から逃げようとしているようなイメージが浮かんで、そして、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタ16,25)というイエスの言葉が非常に強く響きました。それこそ、イエスの導きであると思って、精神病になってもいいから、この言葉を信じ、自分の命をイエスにゆだねることにして、日本に残ることにしました。この決断は、私にとって転機になり、少しずつ精神的にも、霊的にも回復しました。そしてこの体験の結果として、イエスとの関係は、前よりも深く、前よりも安定したものになりました。

結果的に、イエスに対する私の愛の危機でもあったこの体験によって、この愛が強まりましたが、修練長の言葉が完全に間違っていたわけではありませんし、非常に大きな問題を現していると思います。修道生活の30年の間に出会った司祭、修道士や修道女の中に確かに、イエスに対する愛が燃えていたという人がいましたが、大部分は修練長が言った通りであったような気がします。考えてみれば、この問題は、ただ司祭や修道者の問題だけであるわけではありません。洗礼を受けた多くの人についても、結婚した多くの人についても同じことが言えると思います。多くの夫婦は、最初の熱情が冷めているだけではなく、無関心や憎しみに変わることもありますし、大きな喜びと幸福感をもたらしていた二人の関係は、嫌な感情や他の害をもたらすものになっていることもあるのではないでしょうか。

そのような現実は、修練長の言葉を裏付けるように見えても、愛が常に成長するものであるという確信が消えませんでした。ただ、多くの場合愛が発展していない、あるいは死んでしまうというような現実的な問題         の原因は何であるか、つまりどうして、イエスや他の人に対する愛に忠実に生きたいと強く望んでも、また、そのために全力を尽くしても、殆どの人々は、その望み通りに生きることができないのかということが分かりませんでしたし、愛が冷めないようにということだけではなく、心の望み通りに愛がいつまでも深まっていくためにどうすればよいのかということも分かりませんでした。やっと、トラピスト会の司祭トマス・キティングの本と出会ったとき、探していた答えを見つけたような気がして、トマス・キティングが書いたすべての本を手に入れて、それを読み、一生懸命に研究するようになりました。

トマス・キティング師は先ず、私に聖パウロについて一つ大事なことを意識させました。聖パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ2,20)と言えるほどイエスを愛し、イエスと一つになった人で、イエスに最後まで従い、イエスのために自分の命をささげた人です。けれども彼も、自分の望みに従えず、いつの間にかそれと正反対のことをしてしまうというような問題をイエスに出会って、イエスに従うと決心した後にも体験しました。聖パウロは、この問題をローマ人への手紙(ロマ7,15-25)の中で描きました。求めている善ではなく、憎んでいる悪を行う自分の生き方を見た聖パウロは、自分の中で、自分を別の方向へ引っ張ろうとしている二つの法則、互いに争っている二つの力を見出しました。彼が従いたくなかった力を「罪の法則」とか、「肉の人」とか、「古い人」と呼び、従いたいものを「内なる人」とか、「新しい人」と呼びました。そして、霊的な生活の一つ大事な課題というのは、「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てる」こと、と同時に「神にかたどって造られた新しい人を身に着ける」ことだと教えました。(エフェ 4,21-24)。回心をすることとか、洗礼を受けることは、そのような過程の始まりであります。この過程が完成されたことによってのみ、人間は、イエスのように愛に生きることができるようになります。聖パウロは、このような霊的な発達を次の言葉によって表します。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(2コリ 3,18)

トマス・キティング師は、聖パウロが言っている「古い人」のことを「偽りの自己」と呼びます。そして「偽りの自己」がどのように発達しているかということとか、どのように働いているか、どのように私たちを支配しているかということを説明します。この「偽りの自己」は、現実的な存在ではなく、古い生き方、つまり自己中心的な生き方への執着ですが、「偽りの自己」が生きている限り、洗礼によって生まれた「新しい人」は自由に生きること、つまり神にかたどって創られた私たちの本質に沿って生きることができないということです。キティング師は、「新しい人」のことを「真の自己」と呼びます。実は、霊的な発達の目的とは、「偽りの自己」の支配下から自由になって、完全に「真の自己」として、つまり本当の意味で自分らしく生きることなのです。最終的に、聖パウロが教えている通りに、人間が愛に生きるために自由になるのは、神の働きの結果ですが、人間の協力、特に神の働きを受け入れるという意味での協力がどうしても必要なのです。

神の働きを受け入れるために、自分が本当に「偽りの自己」のとりこになっていて、その支配下に生きていることと、自分が自分の力だけでは自由になることができないという事実を認める必要があります。ですから、先ず、自分の中にある「偽りの自己」を知る必要があります。「偽りの自己」を知るということは、私たちが実際にどんな価値観に基づいて生きていることとか、どんな欲求によって動かされていることとか、どんな目的に向かって歩んでいることなど、つまり実際にどんな人間であるかということを知ることになります。この意味での「現実的な自分」と「理想的自分」、つまり、私たちが自分について考えていることや感じていること、想像していることとは、殆どの場合、ずいぶん異なりますので、自分の姿を有りのまま見ることは、多くの人にとって大きなショックを与えますし、この人がうつ状態にまでなる危険性があります。この危険性を避けるために、自分を知るように努めると同時に、神の無条件の愛を知る必要があります。人間においていろいろな自己防衛機制が働いていますので、私たちは、火がいくら魅力的であっても、それにある程度までしか近づけないように、自分のことや神の愛を意識的にある程度までしか知ることができません。キティング師によれば自分のこと、また神のことを一番よく知ることができるのは、観想の祈りの中です。人間の感覚や記憶、また理性や意識そのものを超えている観想の祈りは、同時に神が一番自由に、一番力強く働けるところでもありますので、人間の一番大きな変容は、神の働きの結果としてこの祈りの中で起こるわけです。けれども、観想の祈りは、人間がやりたいときにできるようなものではなく、神が人間に与えてくださる賜物なのです。私たちにできるのは、この賜物を求めながら、それを受け入れるために心の準備をすることだけです。キティング師は、この準備として、「不可知の雲」という本に書かれている指示に基づいて作られたセンターリングの祈りを提案します。

私は、キティング師の教えによって自分の振る舞い、自分の問題の原因を理解することができましたし、センターリングの祈りを定期的に行うことによって、自分なりの霊的な進歩をすることもできましたので、それは私にとって多くの実を結ぶ非常に大きな恵みとなりました。ですから、そのことをいろいろなところで紹介しましたが、数少ない人以外に、その話しに興味を示す人、理解して、実際にそれを実行する人が殆どいませんでした。いろいろな人と話しているうちに、キティング師が描いている問題は、多くの人にとってあまりにも抽象的で、実践生活と関係のないように思われるものであるということが分かりました。そして、この問題が現実的なもので、非常に大切なものであるということが分かるために、先に別の問題を解決する必要があるということに気が付きました。この問題というのは、私たちが日常生活において受ける心の傷なのです。実は、キティング師も心の傷の癒しについて語っていますが、彼が扱っている傷とは、人間が幼い時、まだ理性が働いていないうちに受けたものであります。けれども、私たちが受ける新しい傷が癒されない限り、私たちは古い傷を取り扱うゆとりがないだけではなく、実際にそのような努力が無駄になります。というのは、心の傷が癒されていない限り、人は加害者をゆるすことができませんし、この人を愛することもできません。従って、加害者をゆるさない状態に生きることは、「偽りの自己」を強めるのです。私たちは、霊的に成長するために、つまり「偽りの自己」の支配下から解放されて、愛に生きるようになるためには、まず日常生活において常にゆるすことを学ぶ必要があります。きっとそのためにこそ、イエス・キリストは私たちに不正を行った人をゆるすことを非常に大事にしていて、いつもゆるすようにと力強く呼びかけていたにちがいないと思います。

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