4.癒しの過程の五つの段階

4.1 安らかな死への心理の五つの段階

エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross, 1926-2004)師は、1969年に出版された「死ぬ瞬間」という本の中で、死の告知を受けた人は安らかに息を引き取るために、普段心理の五つの段階を辿ることがあるという自分の研究の結果を発表しました。それによると、自分が近い内に死ぬということを知らされた病人は、まずこの事実を否認します。それは、自分が死ぬということは嘘ではないか、または勘違いではないのかと疑う段階です。患者は、この段階を乗り越えると怒りを感じます。それは、なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階です。怒りが治まると、この人は取引の段階に入ります。なんとかして死なずに済むように取引をしようと試みる段階です。この段階では、例えば、もうタバコを止めるからとか、これから正しく生きるからとか、命を少しでも延ばしていただくように祈ることがあります。以上の段階を経て、そのような努力は無駄であると分かった患者は、うつ状態に落ちます。それは、無力感と同時に、もう治ることがないという実感がもたらす絶対的な悲しみの状態です。この段階を乗り越えれば、死に向かっている人は自分の人生の終わりを静かに見つめることのできる受容の段階に進みます。それは、自分が死に行く事実を受け入れる段階です。

すべての人々がこの五つの段階を辿って、静かに死を迎えるわけではありません。人によって様々です。ある段階にとどまってしまったまま、つまり自分が間もなく亡くなるという事実を認めないままとか、大きな怒りを抱いたまま死ぬ人がいれば、ある段階を飛び越えて、最後の段階に達する人もいます。また前の段階に戻る可能性もあります。この五つの段階をより順調に辿って、自分の死を受け入れて、安らかに息を引き取るためには、大切な人に愛されている実感や、自分の体験やそれに伴う考えや感情について、この人と話すことが非常に重要であるとキューブラー・ロス師が語っています。

デニス・リン師とマッシュ・リン師によると、同じ五つの段階が苦しい体験によって発生した心の傷の癒しの過程に見られるということです。それは、不思議なことではありません。なぜなら、もう間もなく死ぬという告知を受ける人、特にすべての希望をこの世においた人の場合には、この人の精神的な安定が崩される、つまりこの人の心が非常に深く傷つけられるからです。安心して死を迎えることは、このような傷の癒しの結果であると言えます。心の他の大きな傷の場合と同じように、死の宣告による心の傷が完全に治るためには、望ましくない自分の死から善いものを引き出す力のある神を信じることが必要な力の源となるのです。

デニス・リン師とマッシュ・リン師が教えている通りに、精神的な傷を負わされた人は、多くの場合まずこの事実を拒否します。第二段階に入った人は、自分の傷を認めて、加害者に対して怒りを感じるようになります。第三段階に移った人は、加害者がある条件を果たしたら、この人をゆるしてもいいと考えるようになります。第四段階において、被害者が体験した苦しみを自分のせいにして、感じている怒りを自分自身に向けます。最終的に第五段階に着いた人は、苦しい体験によって促された自分の成長、また、この体験から生まれた他の善をはっきりと見て、その成長や他の善のために感謝の念に満たされます。

死の告知を受けた人と同じように、心の傷を負わされた人は、必ずしもこの五つの段階を順番に、また順調に辿るとは限りません。ある段階に留まったり、ある段階を飛ばしたり、また逆戻りしたりする可能性があります。より小さな傷の場合は、殆ど気が付かないうちに最後の段階に到達することがありますが、傷が大きければ大きいほど、癒しの過程を早めるために被害者の意識的な努力が必要です。これから、各段階をより詳しく見て、この段階を乗り越えて次の段階に進むために、最終的に最後の段階に辿るために私たちにできること、また、私たちがとるべき態度やなすべきことについて考えてみたいと思います。

ゆるしへと導く癒しの過程の五つの段階(表)

4.2 第一段階・拒否

私たちの体は、非常に大きな傷を負わせるとショックの状態に入り、私たちは、この傷の痛みを感じなくなります。痛み止めや麻酔のような働きをしているこのショック、場合によって全身麻酔のように意識をなくすることに至るこのショックは、体の自己防衛機能によるもので、私たちの体が受けた害によって出来上がった新しい状態に精神を合わせるために必要な時間なのです。もし、人間はこのような麻酔なしに、はっきりと意識したまま、大きな傷にともなう痛みを感じたならば、それとも、例えば交通事故による大きな刺激を受けたならば、その体だけではなく、精神も深く痛みます。そして場合によって、体が治っても、精神が治らない恐れがあります。つまり精神的な病気が発生するという恐れです。新しい状態に合わせるために時間を与えられることによって、人間はこのような精神的な害を避けることができるわけです。

心が深く傷つけられても、何も大したことがなかったとか、ゆるすことが何もないと思うとか、形式的にゆるすことによって精神的な傷を否認することは、体の傷に伴うショックと同じ役割を果たします。心の癒しの過程において、非常に必要な期間ですので、傷つけられた自分の現実を認めるために無理して努力する必要がないだけではなく、してはいけないことなのです。人間はあまり早すぎて、つまり心の準備ができていないうちに自分の精神的な傷を扱おうとするならば、何もできなくなるほど精神力が衰弱するか、精神病になる恐れもあります。そのために、私たちは過去に負わされた精神的な傷を無理に思い出すようなことを避けた方がよいのです。自然に思い出せる苦しい体験、気になっている不安や恐れや怒りを取り扱えばよいのです。また、より早く癒されて、愛に生きるために苦しい記憶から解放されることを求めるならば、聖霊が今癒したい傷を私たちに示してくださるように祈ることもできます。

拒否の期間の必要性を認めながら、それは、抑制にならないように気を付けなければなりません。もし、心の準備ができても、例えば傷の手当に伴う苦しみを避けるために、拒否の期間を必要以上に伸ばすならば、傷のことを完全に忘れることがあります。その場合、気持ちが楽になるかもしれませんが、前に述べた通りに、それが問題の解決にはならないのです。残された傷は、それを意識しなくてもずっと私たちに悪い影響を与え続けますし、それを再び思い出さない限り、癒す可能性がないということになります。第一段階が抑制になることによって、私たちは心の傷の癒しの次の段階に進むことができなくなるという危険を避けるために、私たちの心の医者である聖霊に信頼すること、聖霊の働きに心を開くように祈ることが必要です。

次のような兆候があれば、自分が自分の精神的な傷を否認している、つまり第一段階にある可能性が高いのです。 集中力が衰えている; 「今」を喜ぶことができない; 常にわけのわからない不安を感じている; 普段よりも頻繁に飲食をしたり、テレビを見たり、音楽を聞いたりすることによって満足や楽しみを得て自分を慰めようとしている; 前より長く寝るが、なかなか眠れない; ある人やある場所やある状況をさけようとしている; 一人になるときや静かになるときに違和感や不安を感じて、この状態から逃げている;  自分の気持ちを表さずに、他人が聞きたいだろうと思うことを話す; 誰かが自分の苦しみについて話そうとするとき、話題を変える; 他の人の苦しみに対する自分の反応は均整のとれたものではない(例えば、映画を一緒に見ている人は皆が感動して涙を流しても、自分だけが感動しない、または逆に、自分だけが感動して涙を流す); 人生には、意義がないように感じている; 感謝することは、何一つないように感じている; 皮肉や批判をよく言う; 憎しみや敵意を抱いたり、無関心や受身的になったり、引き籠りをしたりするなどです。

自分に次のように言い聞かせることによって、この段階を超えることを妨げることになりますので、このように考えることがあれば、それをやめる必要があります。つまり、「あまり気にしなくてもいい、これ以上に悪いことはいくらでもあり得る」、「何もしなくても、何とかなるだろう」、「この問題を無視したら、消えるだろう」、「これは、自分の問題なので、周りの人々を心配させたり、迷惑をかけたりしないように、自分の苦しい体験を誰にも話してはいけない」などです。

心の傷の癒しの過程を早めるために、次のようなことができます。つまり、心地のいいところになるべく長く過ごす、例えば、自分を尊敬している人や愛している人の間に過ごす時間を延ばす; あわてたり、無理したりせず、必要な限り自分にこの段階に留まることを許す; 自分が不正を受けたこととか、大きな傷を負わされたこととかを、自分に無理して認めさせようとしている人を避ける; 神の無条件の愛について黙想したり、この愛に心を開くように祈りをしたりするなどです。

この段階の終わりが近づくと何もなかった振りを少しずつしなくなりますし、自分の傷を見つめはじめて、相手が加害者で、自分が被害者であることが段々とはっきり見えるようになります。

4.3 第二段階・怒り

自分が不正なことをされたことや大きく傷つけられたことを認める人は、怒りを感じるようになります。子どものときから、怒りは罪であると言われてきた人、また、怒りに支配されて自分の意志に逆らって悪いことをしている人の恐ろしい姿を見たり、怒りをコントーロルすることができなくて自分の責任を果たすことができないゆえに、友達にも同僚や上長にも認められないという体験をしたりして、怒ってはいけないと考えるようになった人は、怒りを抑えるように、また、それを隠すように鍛えられていますので、自分が実際に怒っているという事実を認めることや、怒りを抱いてもいいと思うことは難しいかもしれません。けれども、自分の怒りを認めずにそれを隠したり、抑制したりする人は、癒しの過程の次の段階に進むことができないだけではなく、自分を憎んだり、落ち込んだりすることがあれば、長い間に抑制された怒りは、体の病気に変わることもあるのです。

自分の怒りを認めるために、いくつかのことを知っておく必要があると思います。まず、感情そのものは、道徳的に中立的なものである、つまり良い感情や正しい感情がなければ、悪い感情や正しくない感情もないということです。私たちの心から出て来る感情は、心の中で起こっていることを知らせるものですので、自分の感情を見つめることによって私たちは、自分の心の状態、また、私たちのうちにあってもそれを意識しないかもしれませんが、私たちを動かしている価値観や必要性や要求や欲望や期待などを知ることができるわけです。怒りや他の不愉快な感情は、体の痛みと同じ役割を果たしています。肉体的な痛みは、私たちの体に起こっている悪いことを知らせているように、不愉快な感情は私たちの精神に起こっている悪いこと、少なくとも、精神の安定が崩されたことを知らせています。この意味で、望ましくない肉体的な痛みは、非常にありがたい役割を果たしているように、不愉快な感情も非常に大切な役割を果たしています。体の痛みの原因を探す代わりに、痛み止めの薬によってこの痛みを抑える人は、自分の病気を知るチャンスと共に、この病気を治す可能性を失う恐れがあるように、自分の不愉快な感情を無視したり、それを抑えたりする人は、心の問題を知るチャンスとこの問題を解決するチャンスを失う恐れがあるのです。自分の感情を抑えることと同じように、この感情を見つめずに、それを発散することも間違っています。なぜなら、感情を発散すれば、気が楽になるでしょうが、この感情が伝えようとしているメッセージを読み取るチャンスを無駄にしてしまいます。それから、正しくない方法によって感情を発散すれば、感情の原因である元の問題よりも大きな問題を起こすことがあるからです。

不正なことをされたことによって、精神的な傷を負わされた場合は、自分の感情を認めた上で、それを注意深く見つめない限り、加害者をゆるさない方がいいのです。なぜなら、心の傷に伴う感情を詳しく見つめることによって、心の傷の状態や不正されたことによって損失したものを知ることができますので、この傷の癒しのために必要なものや正しい手当の方法が分かりますが、自分の感情を抑えて相手をゆるしたら、問題が終わったと思って何もしないので、心の傷を癒すために必要なものを見つけ出すことなく、癒す可能性を失う恐れがあるからです。

自分の感情を見つめることによってその原因を見つけ出すために、感情の発生の仕組みをある程度まで理解する必要があると思います。実際に感情の発生のし方はもっと複雑ですが、簡単に言えば、私たちの思い通りのことが起これば、愉快な感情が起こりますが、思い通りのことが起こらないときや自分の期待や欲求と正反対のことが起こるときに、つまり欲求不満を体験しているときに、不愉快な感情が起こります。その意味で、私たちの感情は、私たちの周りに起こっていることだけではなく、私たちの人生の経験や私たちが持っている価値観に基づく、世界や他人、自分自身や神に対する期待によって決まっているものであるのです。そのために、異なる期待を持っている人々は、同じ出来事に関して別の感情を抱き、異なる反応をするわけです。極端な場合は、一つの出来事はある人を喜ばせても、他の人を悲しませることがあるでしょう。ですから、私たちを悲しませたり、怒らせたりする出来事や他の人の振る舞いは、悪いものであると決めつける前に、どうして自分がそのために悲しんだか、どうして自分が怒ったかを調べた方が賢いと思います。というのは、場合によって、他の人が本当に悪を行うことがありますが、そうではなく、この人の行いそのものは善であったが、私たちの期待通りのものではなかったためにだけ、私たちががっかりした結果、悲しみや怒りが浮かんだ可能性もあるのです。その場合は、その人の行いや言葉ではなく、私たちの期待に問題があるということになるわけです。その場合、正しいこととは、周りの現状や人々の振る舞いを変えようとするのではなく、間違っている自分の期待を手放すことなのです。

実際に起こった悪に関して怒りを感じているならば、このような怒りは、正しい価値観、また、不正なことをされている人に対する愛を表す感情ですし、悪と戦うための力の源になります。考えてみれば、無力な子どもが虐待を受けている場面を見ても、怒らない人は、冷静であるのではなく、子どもの苦しみに関して無関心で、愛のない人であるのです。福音書の中で描かれているイエスは、このような怒りを抱くことが頻繁にあります。この怒りは、イエスの愛の大きさを表すものなのです。

自分の怒りを見つめるときに、自分の勝手な期待が原因となっている怒りと、実際に起こった悪が原因となっている怒りを区別する必要があります。一方の場合は、自分の怒りの原因であると思われた状態(何らかの出来事とか、他人の振る舞いや言葉)が変わっても、不愉快な感情が消えず、もやもやと燃え続けていますが、実際に起こった悪が怒りの原因であるならば、この悪がなくなると怒りも完全に消えるのです。

心の傷に伴う怒りは、他人の不正や苦しい体験による私たちの損失を表すと言いましたが、その損失を正しく見分けるために、損失にいろいろなレベルや種類があることを意識する必要があります。一番分かりやすいのは、物質的な損失です。それは、奪い取られた、または、なくしたもの、人、健康、仕事などのようなものです。次は、精神的な損失です。それは、自尊心とか、安心感とか、自信とか、理想的自己像などです。それから、霊的な損失があります。それは、例えば、信仰、希望、愛、信頼などです。損失を実際の損失と偽りの損失に分けることもできます。実際の損失とは、失ったものが実際の善で、私たちの真の必要性を満たしていたものであった場合です。偽りの損失とは、失ったものが善であったように見えて、それとも必要なものであったように見えても、実際に私たちの成長を妨げるものであった、または、私たちに他の害を与えるものであった場合です。勿論この場合も、私たちの苦しみや怒りは本物でありますが、結果的にあのものを失って良かったし、それを取り戻す必要がないということになるのです。この事実を認めるならば、相手をゆるすどころか、感謝しなければならないとまで考えるようになることがあります。

怒りの段階を超えて、次の段階に進めるために次のことができます。怒りが非常に強い場合は、それを見つめるために、正しい方法、つまり自分を含めて誰にも害を与えない方法によってある程度まで発散することです。たとえば、肉体的な仕事や運動をするとか、自分の苦しみや気持ちを表す、加害者への手紙を書く(この段階でこの手紙を絶対に送らないこと!)、完全な復讐を考えること(それは、実行するためではなく、自分の怒りを少し発散すると同時に、取り戻したいことを見出すためです)、加害者以外の人で、信頼できる人に自分の怒りや苦しい体験について話すなどです。もし加害者は、親しい人であるならば、この人にも自分の気持ちを表すことができますが、その場合は、「あなたが私を傷つけた」とか、「あなたが悪かった」とか、「あなたのせいで苦しんでいる」などのような言葉を以てこの人を訴えたり、攻撃したりしないように注意する必要があります。「あなたがあのことを言ったときに、非常に悲しかった」などのような言葉を以て自分の気持ちを伝え、この人の返事を聞くだけで十分なのです。もし、神に対して怒りを感じているならば、祈りの中で、それをはっきりと言えばいいですが、大事なのは、言った後に、沈黙の中で、神の答えを聞くことなのです。同じ問題(たとえば差別や家庭内暴力)に直面している人々の支援グループに参加することもできます。自分を愛している人、尊敬している人、信頼することのできる人、つまり自分の精神的な損失や霊的な損失を補うことのできる人と共に時間を過ごすことが大事です。自分の怒りがあまり大きすぎて、それによって支配されているならば、精神科の医者の助け、場合によって安定剤が必要になるかもしれません。そのときに、忘れてはいけないのは、安定剤は問題を解決するものではなく、自分の怒りや精神的な傷を見つめて、それを手当することができるために自分の感情を抑えるものであるということなのです。一人ひとりの怒りの表現の仕方が異なっていますので、普段自分がどのように怒りを表しているかということを前もって分かっておけば、心の傷に伴う怒りを見出すこと、それからこの怒りを見つめることをとおして自分の損失を見つけ出すことは、より簡単になるはずです。

4.4 第3段階・取り引き

加害者に対する自分の怒りを見つめる多くの人が、苦しい体験をしたときからこの人を自分のもっとも大きな敵としてとか、もっとも危険な人物として、もっとも嫌な人として見ていたことに気づきます。傷を負わされた多くの人々は、自分を守るために加害者の人間としての価値を否定したり、この人が良いところが何一つない悪人であると考えながらも、この人には回心する可能性が全くないと決めつけたりすることがあります。けれども、そのような自分の考え方が意識化されると、それは一方的なものであって、加害者は不正を行って、自分を傷つけたことがあっても、この人には悪いところばかりあるのではなく、良いところもあることを認めることができるようになります。場合によって、自分の苦しみとなった相手の行いや言葉の原因、しかも自分と何の関係もない原因と考えられるようなことを見出すことや相手には悪意がなくて、その人自身が他の人の悪事や環境の被害者であることが分かることもあります。そして、この人が他の人に対する態度や言い方を変えたならば、それとも、この人が生きている状況が変わったならば、この人も素晴らしい人間になる可能性があることを認めるようになります。このような可能性を見出すとこの人をゆるすことも可能であると考えるようになります。この段階において、「ちゃんと謝ってくれるならば」とか、「自分の過ちを認めるならば」とか、「何らかの仕方で私のことを実際に大事にしていることを表すならば」とか、「少なくとも、私の悪口を言うのを辞めるならば」、ゆるしてもいいと考えるようになります。このような条件を立てることによって被害者は、加害者に自分のゆるしに相応しい人間になってほしい、言い換えれば、この人を愛することができるように、この人が変わることを求めているということなのです。

確かに、イエス・キリストが教えてくださったとおりに、真のゆるしは無条件のものですが、相手をゆるすための条件を立てることは、このような無条件のゆるしを目的とする心の癒しの過程において大きな進歩なのです。ゆるす条件を立てること、それとも、それが満たされることによってゆるすことが可能になるという自分の望みを意識することは、癒しの過程において非常に大切な役割を果たしますので、例えば、真のゆるしは無条件のものでなければならないというような理由で、この条件をすぐにあきらめるのではなく、それをゆっくりと見つめる必要があるのです。このような条件をとうして、私たちはゆるすために満たさなければならない必要性、それとも、満たさなければならない必要性と思っているような自分の欲求を知ることができます。この必要性をはっきりと知らないときにも、それを満たそうとしていますが、それは、盲人が全く知らない道を歩こうとするような努力ですので、目指している目的に到達する可能性が非常に薄いでしょう。けれども、この必要性を知ることによって目的がはっきりと見えるようになれば、どうすれば良いかを意識的に決めることができます。自分が求めていることをよく見つめれば、それは、真の必要性ではない、つまり自分にとって真の善ではないことを見分けることもできます。結果的に、それを求めても、必要としていないものであるゆえに、それを手に入れるように何もしないことを決めることもできます。自分が求めていることは、真の善であり、自分に本当に必要なものであると判断すれば、この望みをどこで、またどのようにして満たすことができるかと決めたうえで、実行に移すことも可能になるわけです。

相手をゆるすために満たさなければならないと思う条件を知るために、たとえば、加害者からもらいたいお詫びの手紙を自分で書いてから、自分がどんな望みやどんな必要性を表しているかという観点からその手紙を分析することができます。

4.4.1 加害者との不健全な絆(依存関係)を切る

傷つけられた人は、苦しい体験によって損失したもの、また、心の傷が癒されるために必要なものを知らないならば、加害者だけがこの損失を補うことができると考え、また、加害者だけがこの必要性を満たすことができると考えがちなのです。けれども、自分の損失や真の必要性を知るようになれば、加害者だけではなく、他の人もこの損失を補うこと、またこの必要性を満たすことができるということが分かります。場合によって、加害者こそそのようなことが絶対にできないという事実に気づくこともあります。

私たちは、加害者からお詫びとか、自分の誤りを認めることとか、弁償や賠償、また悔い改めることなどを頑固に求めつづけることによって、加害者が私たちの必要性を満たさなければならないという考え方にこだわっている限り、加害者に依存しているのです。場合によってこのようなこだわりは、苦しい体験以前の加害者との依存関係を表すこともあります。ときにこのような関係は、愛や友情の絆と思われますが、実際に依存関係であるならば、他の依存と同じように両者にも害を与えるもの、また最終的に両者を破壊するものなのです。その場合は、傷つけられた心を意識的な手当となっている癒しの過程は、この事実を認識する機会、と同時に、依存関係を切ること、あるいは両者の関係を正すことによってこの危険性を避ける機会にもなるわけです。

4.4.2 真の善を知ることの必要性

取り引きの段階で見出した自分の欲求が真の必要性であるかどうかと正しく判断するために、ゆるしの過程に真の善や幸福の真の源を認知する努力を伴う必要があります。多くの場合、加害者から求めていることは、私自身が自分の中で変えなければならないことを表しています。それは、まだ神にゆだねていないことであるかもしれません。それとも、今まで神よりも頼りにしていて、自分にとって神の代わりになっていたものであるかもしれません。このものがなければ自分が生きることができないか、それを失えば生きる意味がなくなると思ったかもしれません。加害者が私の条件を果たすことによって、私の精神的な安定が回復しても、自分が今まで生きてきた幻想、つまり神以外に真の幸福を与えることのできるものがあるという妄想に戻ること、また、幸せになることを不可能にするこの幻想が固定されたことになる可能性があります。言うまでもなく、このようなことが起こったならば、それは受けた傷よりも大きな問題であり、私たちの状態は、苦しい体験をする前の状態よりも悪くなるのです。

もし、加害者がお詫びすることや私を大事にすることを表すことを求めている理由とは、それによって自尊心を取りもどすことができるということであるならば、私が自分の真の価値をまだ知らなくて、私の自尊心が他人の評価や態度、また他の外面的なものにかかっていることを意味するのです。もし、そのような事実を認知するならば、加害者から何らかの形での弁償を得るように努めるよりも、誰も私から奪い取ることのできない自分の真の価値を知るように努める必要があるのです。自分の真の価値を知らない限り、そして自分の価値に関して確信をもたない限り、加害者から求めているものを手に入れることができても、私の精神的な安定は、他の人や周りの状況にかかりつづけるし、私が傷つきやすい人間で、あやつりやすい人間でありつづけるのです。

考えてみれば、イエス・キリストはご自分の身分、つまり神の子であることを知っておられたゆえに、ご自分の真の価値をも知っておられたので、誰もイエスの自尊心を破壊することができませんでした。そのために、人々はイエスを最悪の犯罪人として扱っても、イエスはご自分の自由を保ち、最後までご自分の身分に相応しく生きることができたのです。

4.4.3 悪を許さない

自分が受けた不正のためにゆるしの条件としてお詫びや他の賠償を要求しないのは、決して加害者に悪を行い続けることを許すことではありません。私たちは賠償をあきらめても、前に述べたように、加害者の不正な行動を止める方法、但し不正でない方法を探さなければならないのです。場合によってそれは、警察に被害届けをすることや加害者を告訴する必要があるかもしれません。

もし、私たちが自分に対して不正なことを行うのを許すならば、この不正が段々と増えるでしょうし、他の人も私たちと同じようにその被害者になり得るのです。正しい方法によって加害者がこれ以上に不正なことができないようにすることができるならば、それは自分を守ることになるだけではなく、他の人を守ることにもなるわけです。

と言っても、ときに、私たちは、自分を守ることができないために、それとも愛への忠実さのゆえに、イエスのように不正を受け入れることが必要になるかもしれないということを忘れてはいけません。けれども、その時も大事なのは、絶望に陥っていて受け身的な態度をとる被害者になるのではなく、イエスの約束に基づいて愛と真実の最終的な勝利への希望を保ちながら、相手の回心の可能性を信じて、自分の苦しみをとおして、例えば自分の忠実な愛を表すこと、あるいは、相手が行う悪の酷い結果を表明することによって、相手を回心へと招き、この悪を止めるように心がける必要があるのです。

4.5 第4段階・憂うつ

苦しい体験によって生じた損失や精神的な傷の癒しのために必要としていることが分かるようになった人は、次の癒しの段階、つまり憂うつの段階に進みます。確かに、この段階に入るのは進歩に見えないでしょうが、それには簡単な理由があるのです。怒りと取り引きの段階において、加害者が被害者の怒りの対象になっていましたが、取り引きの段階で、加害者が完全な悪人ではなく、自分に対して悪を行ったことがあっても、また、自分の行動を正さなければならないことがあっても、基本的に良い人であるという事実を認めた被害者のこの人に対する怒りが和らいだか、完全になくなったのです。しかし、心の傷がまだ癒されていないし、苦しみや怒りそのものが完全になくなったわけではありません。そして、怒りが必ず対象を求めているものですので、今度被害者は、自分の怒りを自分自身に向けます。自分の苦しみに対する自分の怒りの対象になって、自分を責めたり、すべての不幸を自分のせいにしたりすることこそ憂うつ状態なのです。苦しい体験をした人は、この状態に入ると、「あのことを言わなければ良かった」とか、「あのところに行かなければ良かった」とか、「あのことをしなければそんなことが起こらなかった」、または、「あのように反応しなかったならば良かった」とか、「すぐにゆるしてあげたならば、そんな大きな問題にはならなかっただろう」などのように自分を陥れることがよくあります。

憂うつ状態にある人は、自分に対して抱いている大きな怒りのせいで、自分において何も良いところが見出せません。多くの場合この人は、自分が実際に全然悪くなかったところさえも自分のせいにします。さらに、自分のすべての行いを否定するだけではなく、自分の存在そのものを否定して、自分が誰かに愛されたり、尊敬されたり、ゆるされたりするのに相応しくない人間であるように感じることもあります。それは非常に危険な状態なのです。なぜなら、自分の存在に何の価値もないとか、自分自身が自分の最も大きな敵であって、自分にとって最も危険なものであると決めつけたら、自分と闘ったり、自分に罰を与えたりして、自己破滅的な行動をとって、自分に害を与えることがあり得るからです。

憂うつ状態になることは、非常に苦しいことですが、私たちの心の癒しと真のゆるしに近づいていることを表すしるしでもありますので、ここで癒しの過程を諦めることによって、今までの努力を無駄にしないように注意をしなければならないのです。

憂うつ状態は苦しくても、自分の癒しのための必要なものであって、それを自分の成長のために役に立たせることができますが、先に述べた危険性以外に、もう一つの危険性があることを忘れてはいけません。すなわち、自分の苦しみを自分のせいにして、自分だけが責任を取らなければならないという観念は、加害者にとって悪を行い続けるための機会になり得るということなのです。なぜなら、その時に、被害者は自分に正しい方法を以て自分を守る権利があること、自分を守らなければならないことを忘れたり、何の価値もない人間として不正なことをされるのは当然だと思ったりして加害者に対して受け身的な態度をとることによって相手に不正を行うことを許しているようなことになるからです。例え私たちが過ちを犯したとしても、誰にもそれを悪用したり、私たちに害を与えたりする権利がないのです。

自分の真の過ちや罪を認めることは健全なことなのですが、この際に自分を罪に定めたり、自己破滅的な行動をとったりしないために、次のことを覚えましょう。すなわち、全く悪い人は一人もいないということなのです。旧約聖書の知恵の書に次の言葉が書き記されています。「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」(知11,23-26)。この言葉によると、例え誰かにおいて、本人を含めて誰も何の良いところをも見出すことができなくても、この人の存在そのものが、この人において良いところがあることを示していますし、さらに、創造主である神に愛されるほど価値のある存在であることを表しているということなのです。私が自分において見出している悪や罪は、実際のものであっても、それは私についての全体的な事実ではありません。私についてすべてを知っているのは、神だけなのです。そして、神は誰よりも私たちが犯した罪、また私たちのすべての弱点や欠点を良く知っておられても私たちを愛してくださるのは、私たちが神ご自身の愛に相応しい存在、神に愛される価値のある存在であることを知っておられるからです。この事実を常に、特に憂うつの状態にあるときに意識することは大切です。人間の罪はいくら大きくても人間の価値は取り消されることはないので、神は罪を犯した人をも愛しておられますし、愛しておられるからこそこの人の回心を求めておられるのです。なぜなら、人間が犯す罪はこの人の自由を奪い取り、愛する能力を弱め、最終的に不幸にするからです。私たちを罪の束縛から解放するために、父である神はご自分の御独り子であるイエス・キリストが酷く苦しめられた後に、十字架に付けられ、殺されることをお許しになったほど私たちを愛し、私たちの幸福を求めておられるのです。この愛の偉大さを自覚している人は、イエス・キリストのように自分の命と同時に他のすべての人の命を大切にしているのは、不思議なことではないでしょう。

4.5.1 自分の罪に対する態度

自分において悪や罪を見出すのは苦しいことですので、多くの人々は罪の意識がもたらすこの苦しみを無くすために、少なくともそれを和らげるためにいろいろな方法によって罪の意識を抑圧しようとしています。それは、たとえば、自分の罪を他の人や環境のせいにして、それを正当化することです。また、周りにいる人々、特に自分と同じような罪を犯している人や自分よりも大きな罪を犯している人々と自分を比較して、自分の罪はそんなに大きな問題ではないと考え、自分の罪を軽んじるようなことです。このような試みは、例え成功して罪を意識しなくなったことによって人が気楽になったとしても、意識しなくなった悪や罪が無くなるわけがありません。この人は、せっかく意識した自分の問題を解決し、自分の生き方を正すことによってより良い人間になるチャンス、人間として成長するチャンスを無駄にしたことになるのです。

罪を犯しても神に愛されていることと、神はどんな罪をもゆるしてくださる、つまり罪を犯すことによって神から離れた人を、神が必ず、しかも喜んでご自分との愛の交わりに受け入れることを自覚している人は、自分の過ち、また自分において見出した悪や罪を認めることができるだけではなく、それを落ち着いて、正直に見つめることもできます。従って、この人は、自分の罪の原因、例えば、誘惑に落ちた、つまり、誰かに騙されたこととか、欲望や間違った考えに基づく非現実的な期待を持っていることとか、いろいろな恐れや不安を抱いていること、また依存、悪い癖、執着などのようなことを知ることができます。そのような罪の原因をなくすことによって、罪を犯す前よりも自由で、良い人間になりますので、不思議に自分が犯した罪は善をもたらすことになるわけです。このような経験によって、私たちは、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ロマ5,20)という聖書の言葉が事実を述べていることを実感できますので、神に対する私たちの信頼も強まるのです。

4.5.2 憂うつの望ましい結果

このように自分の罪や過ちを知ることによって、自分の生き方を正すことも、自分の状況を改善することも、神と他の人との関係を深めることや神に対する信頼を強めることもできますので、加害者の回心を待つ必要がないことが分かるし、自分が加害者の憐みを待たなければならない無力な被害者ではないことも分かります。憂うつの段階が、このような結果をもたらすならば、次の段階に進むこと、つまり心の傷を癒していただき、自分の加害者を完全にゆるすことを可能にするものになるのです。このような結果を早めるために、神や他の人々に愛された体験を思い出したり、自分を大切にしている人や自分を尊敬している人々のリストを作成したりすることと神や他の人々によって愛されている理由について考えることができます。また、祈りの中で、また信頼できる人の前で、自分が誤ったと思うことや、自分の人生において直さなければならないと思うことについて話すことも大切です。必要に応じて神のゆるしを願い、自分自身をゆるす恵みや心の癒しの恵みを祈り求めましょう。

4.6 第5段階・受容

自分の問題を理解することは大事ですが、憂うつから脱出するためには十分ではありません。傷ついた心が癒されるために必要なのは、たとえばゆるしていただくことによって、無条件の愛を体験することです。ですから、私たちは絶えず、私たちを愛してくださっている神と神の愛をもっと深く知るように、必要に応じて、自分の信仰の内容、特に自分の神のイメージを正すように、つまりこのイメージは、イエス・キリストが啓示してくださった神の姿に近づくように努力する必要があります。もちろん同時に、人間関係を正しくするように努めることも大事です。神の愛と他の人々の助けを受けることによって、人は自分自身をゆるし始め、犯した過ちを直すように働き始めます。そして、それによって最後の段階、つまり受容の段階に近づくのです。神が常に私たちに与えようとしてくださっている無条件のゆるしを受けてはじめて、同じ無条件のゆるしを自分の加害者に与えることができるのです。

受容の段階に辿る人は、元々自分を傷つけた苦しい体験が何の問題もないと言えるようになります。確かに、この体験の直後の拒否の段階にも同じように言っていましたが、今の言葉や苦しい体験の記憶に全く違う感情や行動が伴います。拒否の段階において傷を負わされた人は、自分の苦しみや不安を隠すために、本当の問題から逃げて、気にするほどのことは何も起こらなかったと自分を説得しようとしていました。加害者に対して正しい態度をとることができても、実際にそれによってこの人に対する自分の怒りを隠していただけです。同時に、この怒りによって支配されて、他の人や自分自身に対して正しくない態度をとったり、他人を批判したり、悪口を言ったり、不満や不平などを言い表したりしました。受容の段階において、心の傷を表すこのような徴候がなくなります。そして、苦しい体験によって促された自分の成長や、この体験から生じた他の善をはっきりと見て、傷ついた時にこのような結果になると全然想像もできなかったその成長や他の善のために自分の心が感謝の気持ちで溢れます。結果的に、苦しい体験が祝福になったということを認めますので、その体験自体とそれに関して起こったことを感謝するようになります。けれども、不正などによる苦しい体験が、良い結果をもたらしても、そのような善のために神が「苦しい恵み」とか、「十字架」や「試練」として与えてくださったものであると考えるのは、間違いです。なぜなら、神は悪から善を引き出すことができますが、何らかの善のために悪を求めたり、悪を行ったりすることは、絶対にないからです。悪から善が生じても、つまり神は悪を善に変えることがあっても、悪そのものは、望ましくないものなのです。この事実を、カトリック教会はカテキズムの中で、キリストの受難と死について語る際に次の言葉を以て表しています。「これまでに行われた最大の道徳的な悪は、神の御子を排斥し殺害したことです。これはあらゆる人間の罪が原因ですが、神は満ち溢れる恵みによって、そこから最大の善であるキリストの栄光とわたしたちのあがないを引き出されました。とはいえ、悪が善になるわけではありません」(カトリック教会のカテキズム 312)。

4.6.1 心の癒しの他の結果

この感謝の念や平安や喜び以外に、傷つけられた心の癒しは、次のような結果をもたらすことがあります。癒された人が体験した不正は、どれほど大きな苦しみをもたらすかということを実感しましたので、同じ不正を行うことによって他の人を傷つけないように注意するようになる、つまり他の人に対して優しくなるということです。また、憂うつの段階で自分の過ち、また弱点や欠点を良く知ったゆえに、他の人の過ちや弱点や欠点を良く理解するようになるということです。それから、辛い体験からも、また自分の失敗からも、良い結果が生まれたことを体験したゆえに、心強められ、人の批判や自分の失敗を恐れずに、新しい仕事や他のチャレンジを前よりも簡単に引き受けることができるようになります。心の癒しに体の癒しが伴うことも珍しくありません。(凡そ70%の病気、特に癌や心臓の病気の原因は、精神や霊的な問題であると言われています。)

癒された人にとって、自分の加害者をゆるすことは、ごく自然なことになりますし、加害者と和解したいという望みも生じます。この望みが強くても、無理にそれを実行しないように注意する必要があります。というのは、癒された人は和解するために心の準備ができても、加害者はまだ心の準備ができていない可能性があります。その場合、和解するための努力は、良い結果よりも悪い結果を生み出す恐れがあります。また、公に自分の加害者をゆるす宣言をしたり、直接に相手にゆるしの言葉を述べたりすることも避けるべきです。私たちにとって相手が加害者に見えても、実際そうではないこともあり得ます。この場合、私たちのゆるしの宣言は、相手を訴えることになり、無実な人を辱めること、傷つけることになるのです。それよりも、相手に対する親切な態度や言葉によって、自分が和解するために心の準備ができていることを表し、相手の反応や様子を見ながら、少しずつ近づくようにした方がよいのです。

4.6.2 癒し過程の続き

心の癒しは、完全でなく、部分的なものである可能性があります。時に、昔に起こった苦しい体験によって負わされた傷をその原因であった体験と共に忘れても、この傷が癒されていないために、現在扱っている傷が完全に癒されないことがあります。けれども、今の癒しは、部分的なものであっても、無意味であるわけではありません。なぜなら、この部分的な癒しは、昔の傷の癒しを可能にすることがあるからです。現在の傷の癒しの過程は、一応終わったところで、それが完全なものではないことについて悩むのではなく、癒すことが可能になった昔の傷を扱えばよいのです。そして、この傷が癒された後に、部分的に癒された傷に戻ればいいわけです。このように、一つの傷だけではなく、すべての傷を癒やすことによって、心の完全な癒しに向かって歩むことができるのです。

心の癒しが部分的なものであったゆえに、自分の努力が無駄であったと考えることは心の癒しの完成を妨げるように、部分的な癒しを体験しても、自分が完全に癒されたと考えることも、より深い癒しを妨げます。なぜなら、自分の心がもう完全に癒されていると決めつける人は、残った傷の手当をしないからです。

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以上紹介した心の傷の癒し過程の五つの段階は、概要に過ぎないものです。そして、概要として、複雑な現実を単純化するものです。実際に自分の心の傷の癒しは、それと違う道を進む可能性が高いですので、この概要をマニュアルとして読まないように注意しましょう。なぜなら、これをマニュアルとして読む人は、ここで書いたものと自分の体験が異なっていることに気づき、自分の傷の手当を諦めてしまう恐れがあるからです。真のゆるしがどんなものであるかということや、傷つけられた心の癒しの概要を紹介したのは、癒しを不可能にする過ちを避けるため、また、自分の心の実際の癒しの過程に協力し、それを早めることができるようになるためなのです。一人ひとりは、この概要を自分の現状に合わせて、適用化する必要があるのです。

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