「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。 これこそ、キリスト・イエスにおいて、 神があなたがたに望んでおられることです。」1テサ5,16-18
「あなたは、どのような人ですか」と問われたら、どのように答えますか。恐らく、どこで、また、誰に質問されるかによって、その答えが変わってくるのではないかと思います。普段、人々は場所や団体によって異なる役割を果たしていますので、自分自身の本性を知らない人は、そのような役割や人の期待に振り回されて、尋ねる人によって異なる答えを与えるだけではなく、どこに、また、誰と一緒にいるかによっても異なる生き方をしていて、結局、自分らしく生きることができないのです。
殆どの人と違って、洗礼者ヨハネは自分自身の本性をよく知っていましたので、どんな状況においても、たとえそれによって人から誉れを受けることになっても、はたまた、支配者の怒りを招いて命を失うことになっても、その本性に忠実に生きていました。洗礼者ヨハネは、そのような生き方をしていたために、世の光である方、また、世の救い主である方を見極めることができましたし、その方を世の光、世の救い主として、皆に指し示して、神から与えられた使命を果たすことができたがゆえに、彼の人生は全うされたのです。
福音記者ヨハネが教えています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」(ヨハ3,19-20)と。世の光として来られたイエス・キリストは、私たちに、一人ひとりの中にある愛すべき素晴らしいところや、自分の本性を知る可能性と同時に、この本性に沿って自分らしく生きる可能性をも与えてくださっています。けれども、この可能性を実現するためには、まず自分の中にある醜いところを、また、悪や罪を認める勇気が必要です。神の無条件の愛こそがこの勇気の源ですので、神の愛を知る恵みと、この愛を信頼する恵みを祈り求めましょう。
喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしがちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、
この救いの神秘を祝うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。