最後の警告

1. 教会の最後の試練[1]

誰が実際に神の意志に従って生きているのか、誰がそうでないのかを判断するのは私たちではありませんが、多くの人々に苦しみをもたらす不正やその他の悪は、神の意志に完全に反していると確信できます。イエスご自身がサタンをこの世の支配者と呼び(ヨハネ12,31; 14,30)[2]、受難の時は、闇の支配の時であると宣言しました(ルカ22,53)[3]。このイエスの言葉は現代にも当てはまると思います。残念ながら、世界と教会自体の両方で、意識的に、または、そんなつもりがなくても実際にサタンに仕え、彼の計画、すなわち、キリストの教会を破壊し、できるだけ多くの人々を神から引き離すという計画を実行している多くの人々がいます。悪の力は非常に強力で、神でさえそれに対して無力であるという印象を受けることがあるでしょう。ただし、これは外観にすぎないのです。

神の真の全能性と神の絶え間ない救いの働きは、白い馬に乗った人によって示されます。彼は、最初の封印を開いた後、「勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った」(黙示録6,1-2)[4]と述べられています。この人は、十字架上での死と死者の中からの復活を通して、すでにサタンを打ち負かし、人々に救いの恵を与えることによって、また、神の国を完成することによって、この勝利を完全なものにするイエス・キリストの象徴なのです。

毒麦のたとえ話(マタ13,24-30)[5]を通して、イエス・キリストは、神の意志に従って生きる人々を守るため、また、すべての人に回心するチャンスと救いの恵を受け入れるチャンスを与えるために、可能な限り、罪に生きている人々を許容すると同時に、彼らの行動から生じる悪を許容すると教えています。けれども、彼が善と悪を分離し、主の祈りの中で表現されているキリスト者の祈願を聞き入れて、完全に神の意志に一致する現実、すなわち、神の国を確立する時が来ると約束してくださるのです。

いつくしみ深い父である神は、無限で、無条件の愛をもって一人ひとりの人を愛しておられますので、神のすべての決断、たとえそれは、神ご自身の行動ではなく、神の意志に反する他者の行動を許可するような決断であっても、すべては、私たちにとって最善であると確信することができます。しかし、これは私たちが神の決断の意義や目的を常に理解できるという意味ではありません。キリスト者を含む多くの無罪な人々の苦難や反キリストの支配を許すという神の決断は、私たちにとって特に理解しがたいものであると思います。

教会がキリストの神秘的な体であり、キリストの救いのわざを続けて、イエス・キリストが一人の人間としてこの地上で働いたときに歩んだ道と、本質的に同じ道を歩んでいるという事実を思い出すことは、少なくともある程度まで、神の決断を理解するのに役立つと思います。

「直接にも、間接にも、いかなる意味においても、道徳的悪の原因ではない」(カトリック教会のカテキズム311)神は、御子の受難や十字架上の死を望まなかったが、私たちの罪を贖うために、また、私たちが神と和解することが可能になるために[6]、それをお許しになったのです。それと同じように、神が教会の苦しみとその見かけの消滅を許されるのは、教会の復活によって救いのわざを完成させるためであると考えることができます。

イエスは、裏切り者となったイスカリオテのユダを使徒たちの団体に入るのを許したように、イエスの信頼を裏切り、教会を内部から破壊する人々が司教団や司祭団に入ることを許しています。また、イエスは、イスラエルの指導者たちがユダの裏切りを利用して、イエスを逮捕し、不正な裁判を起こして、死刑の判決を下すのを許したように、教会に対して敵意をもっている多くの人々が、これらの裏切り者の行動を、教会の道徳的権威を破壊し、最終的には教会自体を破壊するために利用することをも許しているのです。

キリストを裏切っている人々の行動とキリストの教会に対して敵意をもっている人々の行動は、キリストの受難と死と同じように望ましくない悪であり、真のカトリック信徒にとって非常に大きな苦痛ですが、イエス・キリストは、それをより大きな善のために利用しています。この善とは、教会の浄化です。この浄化は、いろいろなスキャンダルのため、そして教会が自分の威信や道徳的権威、また評判や人気を失っているため、元々ただ習慣的に、または、何らかの個人的な利益のためにだけ教会に通っていて、生きた信仰とイエス・キリストへの真の愛をもっていなかった人々が、教会から離れていくことによって行われているのです。この大きな背教(教会離れ)は、終わりの時のしるしとして、第二テサロニケの信徒への手紙(2テサ2,3)[7]と第一テモテへの手紙(1テモテ4,1-2)[8]の中で予告されています。

この教会離れは、イエスの教えを聞き、イエスが行った奇跡を見、エルサレムまでイエスに従った人々が、イエスから離れたことを思い起こさせます。この人々がイエスから離れて、イエスを殺そうとした人々の側に移ったのは、イエスが逮捕され裁判にかけられた後です。元々、これらの人々がイエスに従ったのは、イエスの力がイスラエルの権力者の力よりも大きいと確信したからと推測できます。しかし、彼らは屈辱されていてるイエスの姿、すべての魅力と権威を失い、完全に無力に見えたイエスの姿を見たとき、実際にイスラエルの指導者たちが権力を握っていると考えて、イエスから離れて、権力者の側に立つ方が安全であると結論付けたでしょう。

イエス・キリストは、教会を清めるためにのみならず、できるだけ多くの人々に永遠の命を与えるためにも働いています。したがって、彼は回心するチャンス、神の命と愛に預かるための招待を受け入れるチャンスをすべての人々に与えたいと望んでいます。多くの神秘主義者、聖人、そして私的啓示を受けたキリスト者たちが「警告」、「良心の悟り」、または、「小さな判断」と呼ぶ出来事が、そのような回心のチャンスとなるのです。

2.警告の準備 =>


[1]「キリストの来臨の前に、教会は多くの信者の信仰を動揺させる最後の試練を経なければなりません。教会のこの世における旅路に伴う迫害は、そのとき、人生の諸問題の見せかけの回答を人々に与えて真理を捨てさせる偽宗教の形をとった、「不法の秘密の力」を現すでしょう。この偽宗教の最たるものは反キリストのそれで、人間が神と受肉された神の御子であるメシアに替わって自らに栄光を帰す、偽りのメシア観です(カトリック教会のカテキズム675)。

[2]「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」(ヨハ 12,31)。

「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」(ヨハ14,30)。

[3]「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(ルカ 22,53)

[4] 「また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。」(黙 6:1-2)

[5] 「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。『天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」主人は、「敵の仕業だ」と言った。そこで、僕たちが、「では、行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は言った。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタ 13,24)

[6] 「これまでに行われた最大の道徳的悪は、神の御子を排斥し殺害したことです。これはあらゆる人間の罪が原因ですが、神は満ちあふれる恵みによって、そこから最大の善であるキリストの栄光とわたしたちのあがないを引き出されました。とはいえ、悪が善になるわけではありません」(カトリック教会のカテキズム312)。

[7] 「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです」(テサ2,3)。

[8] 「しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです」(1テモ 4,1-2)。

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