2.神の言葉である聖書

聖書は、様々な人が書き記した73冊の文書から成り立っていますが、73冊すべてが聖なる書であること、つまり、神が人間に伝えたいと望まれたことを聖霊の霊感によって誤りなく伝えているということは、本当なのでしょうか。言い換えれば、聖書と呼ばれている本は、本当に神の言葉であるという確信を持つことができるのでしょうか。神ご自身がこのすべての文書の著者はご自分だと認める証明書を発行されたわけではないのですから、誰が、どのように、また、どんな権威を以てそれを決めたのでしょうか。この質問に答える前に、まず、神のことを知る方法、特に神の自己啓示について、次に聖書が形成された過程について、説明したいと思います。

神の自己啓示

人間は、神から与えられた理性によって、様々なことを知り、理解することができます。理性のおかげで、科学が発展し、私たちが生きている世界の構造や人間自身の精神や体の仕組みなどの理解が深まり、技術も向上し、昔は想像もできなかったようなことができるようになりました。同じく理性のおかげで、人間は、何が正しいか、つまり、どのような行動が人間を生かし、人間の益になるのか、また、どのような行動が人間に害を与えるのかということ、つまり、道徳的な基準をある程度まで知ることができます。また、世界や人間に関する知識に基づいて論理的に考察することによって、存在しているすべてのものの第一原因であり、創造主である存在、すなわち、可視的現実を超える神が存在するという結論を出すこともできます。要するに、理性によって人間は、少なくとも、神が存在しているということと、神は創造主であるということを知ることができます(ロマ1・20-23)。

けれども、理性のみの力によっては、至底知ることができないことまでも、人間は神について知っています。例えば、神は唯一でありながら、父と子と聖霊という三つのペルソナであること、つまり三位一体の神秘を知っています。このような認識は、神ご自身の啓示によるものです(カテキズム50)。ヘブライ人への手紙の中に次のように書き記されています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブ1・1‐2)。神は、自分のことを最初から完全に現してくださったのではなく、良き教育者のように、人間の心理状況や理解力に合わせて、少しずつご自分を現してくださったのです。そして、神の自己啓示の過程の頂点は、神の御ひとり子であるイエス・キリストです。次第に完全なものとなる、啓示の過程の発展は、聖書の形成の過程の中で見られます。

旧約聖書の形成

神のわざであるすべての被造物そのものは、神の自己啓示のうち、いわゆる、自然の啓示ですが、神はいろいろな自然の現象や出来事を通して、また、人間のいろいろな体験を通しても語られるのです。神は、アブラハムを召し出してから、彼の生涯の中で、また、彼の子孫から生まれたイスラエルという民族の歴史の中で、特に力強く、特にはっきりとした形で人間にご自分を啓示し、この世界に対するご自分の計画を実現してこられました。イスラエル人が体験した神の働き、特にエジプトから解放されたことやシナイ山で神と契約を結んだことは、まず数百年の間に口頭で次の世代に伝えられました。やがて凡そ紀元前10世紀から、口伝された諸伝承が少しずつ文書化されています。紀元前8世紀から6世紀の間、多くの預言者たちが活躍し、過去や現在の出来事の中で見出した神のメッセージ、いろいろな教えや警告や導きを告げました。言葉を自ら書き記す預言者もいましたが、多くの場合は、彼らの弟子や後の人が預言者の生涯や彼らが宣べた言葉を書き記しました。国家を失う経験をしたイスラエル人は、捕囚からパレスチナに戻った時、民族のアイデンティティを再認識し、それを保ち、次の世代に伝える必要を感じました。そのためユダとイスラエルの王たちの歴史、いろいろな資料に書き記されていた捕囚前の歴史、エルサレムの物語、また、捕囚時代の物語をまとめ、必要に応じて文書化し、いろいろな資料や様々な伝承を合併し、再編集しました。こうして、預言書の作成は、紀元前6世紀までに終わり、モーセ五書は紀元前5世紀に完成しました。その後、ダニエル書やマカバイ記を含む、いくつかの文書が記され、紀元前1世紀に、旧約聖書の最後の書「知恵の書」が書き記されました。要するに、旧約聖書の一番古い文書が書かれてから、最後の文書が書かれるまで、実に1000年以上がかかったわけです。

このように非常に長い過程を経て作成された書が、聖なる書であるとは、聖霊が聖書記者たちを導かれたからなのですが、それだけではありません。聖霊は、元々の出来事やその登場人物の生涯の中でも働かれ、また、この出来事や登場人物の言葉や行いを口頭で伝えた人々にも働かれ、神が伝えてくださった言葉の意味を変えることなく正しく伝える恵みを与えてくださったからです。さらには、口頭で伝えられたそれらの伝承を文書化した人も、いろいろな文書を編集したり、資料を合併したりした人も聖霊の導きに従ってこの作業を行ったからです。要するに、聖書作成のすべての段階で、また、この作成に関わったすべての人々において神が働かれたからこそ、聖書は神の言葉を正しく伝える聖なる書であると確信してよいわけです。

新約聖書の形成

新約聖書に収められているすべての書は、比較的短期間の内に、すなわち、およそ50年の間に書かれましたが、新約聖書も、基本的には旧約聖書と同じような作成過程を経て作成されました。けれども、作成期間が短いため、かえってこの過程の各段階を、より明瞭に見て取ることができます。

まず、神の自己啓示の頂点として、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れで」(ヘブ1・3)あるイエス・キリストの生涯、特にパレスチナにおけるイエスの行動と教え、キリストの死と復活がありました。イエスご自身がご自分の教えを書き記したというような記録はありません。イエスは、ご自分の活動のごく早い段階で、ご自分の証人となるために12人の弟子を選んで、彼らに「使徒」、つまり、「遣わされた者」という名を付け、彼らに特別な教育を与えられました。そして復活後にイエスは、この使徒たちにご自分の教えをすべての人々に伝えるように命じ、彼らを全世界に派遣されました(マコ16・15、マタ28・19-20、マタ24・14、使1・8)。カトリック教会のカテキズムは次のように教えています。「主キリストは至高の神の全啓示が自らにおいて完了されるため、かつて預言者によって約束された福音を自ら実現し、かつご自分の口をもって宣布しましたが、これを救いに関するあらゆる真理と道徳の源として、すべての人にのべるよう、また彼らに神のたまものを与えるよう使徒たちに命じました」(カテキズム75)。

福音書が度々示しているとおり、12人の使徒たちは、イエスの行いを目撃し、イエスの言葉を自分の耳で聞いても、それをよく理解することができませんでした。けれども、そんな彼らも、昇天されたイエスが約束どおり遣わしてくださった聖霊を受け、イエスの指示に従って旧約聖書を読むことによって、イエスの行いと言葉の真の意義を見出すことができました。そして、キリストから与えられた使命を果たし、イエスを証ししながら、その生涯と教えを忠実に宣べ伝え、その意義を説明するようになりました。使徒たちは、様々な状況に置かれている、いろいろな人々にイエスの福音を宣べ伝えたので、聞く人々の誰もが理解できるように、必要に応じてイエスの教えを聞いたとおりにではなく、また、イエスの行いを見たとおりに伝えたのではなく、それを適宜に編集、適応化しました。

イエスの弟子たちの宣教活動の結果、イエス・キリストを救い主として認めるキリスト者の共同体が次々と生まれてきました。聖ルカはキリスト者の共同体の生活を次のように描いています。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使2・41-42)。イエスを証しし、イエスの福音を伝えたのは、使徒たちだけではなかったのですが、聖ルカが伝えているとおりに、使徒たちは、特別な権威をもって、宣教し、弟子たちから特別に尊敬され、共同体の中心的、指導的な立場にいました。

当時の宣教は、主に口頭で行われました。その頃キリストの行いや教えについての文書も書かれたようですが、後に新約聖書に収められる書簡という形の文書が、西暦50年代に入ってから、聖パウロによって、書かれました。勿論、聖パウロは、それらの書簡を聖書として書くつもりはありませんでした。ただ、自分が創立した共同体において何らかの問題が起こったと聞いても、すぐにそこへ行けないときに、この共同体を教え、戒め、励まし、指示するためにそれらの書簡を書いたのです。聖パウロは、特定の共同体に宛てて書簡を書きましたが、それを読んだ他の共同体のキリスト者が、それを自分の共同体のためにも利用することができるということが分かると、それらの書簡を写し、次々と新しい写本を作ったため、聖パウロと他の指導者が書いた文書は、キリスト教の世界の中で少しずつ広まってゆきました。

福音書は、書簡の形式をとっていないとは言え、実際には、書簡と同じような目的のために作成されました。というのは、福音記者たちは、イエス・キリストの行いや教えすべてを、次の世代とか、全世界の人々に伝えようとして福音書を書き記したのではなかったからなのです。初代教会の諸共同体には、新しい、つまりイエスが活動をなさった時にはなかったような、疑問や問題や困難が生じていました。そのために、福音記者たちは、自分たちの共同体のこのような疑問や問題や困難に対処しようとして、イエスの教えやイエスが示してくださった模範に基づいて、必要と思った教え、励ましや導きなどを与えようとしました。自分の記憶や手元にあった資料の中から必要と思ったものを選び、共同体のキリスト者たちに理解しやすいよう編集し、解釈し、相応しい表現を用いて福音を記しました。要するに、福音記者たちは、各共同体の状況や必要に応じて、使徒がしたようにイエスの教えを適応化したのです。福音記者たちは、それぞれ異なる現状にあって、異なる問題や困難に直面していた共同体のためにその福音書を書きましたから、そして彼らは一人ひとり、性格とか生まれ育った環境や受けた教育も異り、イエスの教えや神学の課題に関する好みも異なっていましたから、同じイエスの生涯と教えを基にしていても、結果的には異なる福音書を作成するに至ったわけです。

使徒たちと司教たちの権威

聖パウロの書簡が示しているように、初代教会においてすでに間違った教えを宣べる人たちがいました。教えが正しいかどうかということを決めるために決定的な権威をもっていたのは、使徒たちでした。使徒たちは、この権威を教会から与えられたのではなく、イエスご自身から与えられたのです。ご自分の教えをすべての人々に伝えるように使徒たちを遣わしたイエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハ20・21)と言われました。イエスが神の名によって語る権威を父である神から与えられたように、ご自分の名によって語る権威をイエスは使徒たちに与えられたということです。聖パウロは、1世紀のキリスト者の意識を表して、使徒たちについて、次のように語ります。彼らは、「新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を」(二コリ3・6)神から与えられた者、「キリストの使者の務めを果たしている」(二コリ5・20)者、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(一コリ4・1)である、と。このように、初代教会のキリスト者たちは、イエス・キリストが使徒たちに与えてくださった権威を認め、使徒たちがイエス・キリストの名によって語る、イエスの代理人であることを認めています。それゆえにこそ、ある教えが正しいものであるかどうかということを判断する決定的な権威を使徒たちに委ねたのです。

使徒たちは、この権威、つまり、キリストの代理として、キリストの名によって語る権威を、彼らが任命した自分たちの後継者に伝えました。このことは、キリスト者によって、最初から認められていました。聖パウロも(例えば、一テモ3・1‐7、 テト1・7‐9)、教父たちも(例えば、ローマの聖クレメンス、アンチオキヤの聖イグナチオ)使徒たちの後継者、すなわち司教たちの権威を認めています。

使徒たちは、キリストご自身から与えられた権威、また、彼らが司教たちに伝えたこの同じ権威は、教えの正しさを決定するものであったと同時に、聖霊の霊感によって書かれた文書、つまり、どのような書が神の言葉で、聖書に属するものであるかということを識別する権威でもあったのです。

新約聖書の正典化

初代教会のキリスト者は、ユダヤ人と同じように、「正典的な意識」、すなわち、彼らが持っていた特定の文書が、彼らのキリスト者としての生活の規範となっているという確信を持っていました。この確信を、聖パウロの言葉が描いています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(二テモ3・16)。そのために、キリスト教の各共同体は、ユダヤ教会から受け継いだ聖書と同じように重要であり、有益になると思った文書を大切に保管し、他の共同体が持っていた文書を写したりしたのです。

2世紀の前半に、多くの場合司教でもあった教父たちは、自分たちの共同体のために、正典と認めた文書のリストを作り始めます。教父たちは、四つの福音書とパウロの書簡を、ユダヤ人の聖書と同じ権威のある書として認めました。西暦202年に亡くなったリオンの司教聖イレネオは、ユダヤ人の聖書を「旧約」、そして、正典として認められたキリスト者の文書を「新約」と呼び始めました。

しかし、全ての共同体が、同じ文書を霊感に基づいて書かれたものとして等しく認めたわけではなく、各共同体において出来上がった正典のリストは異なっていて、すべては、暫定的でした。その後も、除外した文書が次々と出回り、マルキオンのような異端者たちは、自分たちの正典を作り始めました。そのため使徒的教会は、公式に正典を確定する必要がありました。新約聖書の二十七書の正典は、393年のヒッポンの教会会議と397年のカルタゴ教会会議において、教会を代表して集まった司教たちによって承認されました。その後、多くの教皇と公会議によって再確認されます。

このように凡そ300年もかかった新約聖書の正典化の過程において、第一の基準、つまり、聖書に属する文書として承認する一番大事な条件は、文書の使徒性です。文書の使徒性とは、著者が使徒自身であるということに限らず、何らかの仕方で使徒の伝承につながっているということです。例えば、使徒の弟子や協力者が書いたものや、使徒や弟子が残した資料の収集、その合併や編集の結果として作成されたものです。第二の基準は、文書の普遍性、つまり、文書がある特定地方の共同体だけではなく、全教会で通用するものであるということです。第三の基準は、正統性、つまり、文書全体が、使徒の教えと一致していること、さらに第四の基準として、文書が朗読や教えるために用いられるのみならず、典礼においても用いられるということでした。

新約聖書の正典化の過程は、教会全体による、特に使徒たちからキリストの名によって教える権威を受けついだ司教たちによる、識別の過程でもありました。司教たちにその権限がなければ、彼らが行った正典化には根拠がないことになりますし、どの書が聖霊の霊感に基づいて書かれたかが誰にも分からなかったことになるのです。したがって、「聖書」と呼ばれている本を神の言葉として読むために、使徒たちの後継者の権威を認める必要があります。逆に言えば、使徒たちの後継者である司教たちの権威を認めていない人には、カトリック教会の識別を信頼する根拠も、新約聖書を神の言葉として認める根拠もないために、聖書が本当に神の言葉であるという確信を持つことができないことになるのです。

旧約聖書の正典化

ユダヤ教は、伝統的に聖なる書物を三つのグループに分けていました。第1のグループは、モーセ五書です。第2のグループは、預言書です。そして、第3のグループは、諸書です。1世紀のユダヤ教の世界において、第1と第2のグループに属する文書は、はっきりと決まっていて、これらの文書は、公に聖書として認められていました。しかし、第3のグループに属する文書については、まだはっきり決まっておらず、いくつかの文書の権威について疑問を持つユダヤ人のラビもいました。ユダヤ教にとっては、エルサレムの神殿が中心となっていた時に、聖書の正典が正式に決まっていなかったことは、問題にされなかったようです。けれども、神殿が破壊された西暦70年からユダヤ教は、自分たちのアイデンティティを確定し、それを保つために新しい基礎を求め始めたのです。当然のこととして、聖書がユダヤ教の基礎になりました。そこで、どの文書が聖書であるかということを、はっきりと決める必要性が生じてきたわけです。ラビたちの諸会議の結果、2世紀末から3世紀初めごろに、ヘブライ語やアラム語で書かれた三十九の文書が聖書と認られました。しかし、ギリシア語で記された七つの文書(トビト記、ユディト記、知恵の書、シラ書、バルク書、マカバイ記一、マカバイ記二)は、聖書として認められず、正典に入りませんでした。そして、三十九の文書が公に認められるようになっても、その中のいくつかの文書については、まだ5世紀まで議論され続けました。

したがってキリスト教が生まれた1世紀の時点では、ユダヤ教の正典がまだはっきりと決められていませんでした。2世紀の終わりごろにユダヤ教のラビたちによって正典から外された7の書は、少なくとも七十人訳聖書(旧約聖書のギリシア語の翻訳)を用いたユダヤ人によって聖書として認められていました。また、この七つの文書の中の三つが、クムランで発見された写本の中にありましたので、クムランの共同体もこの書を聖書として認めていたという結論を出す学者もいます。

この七つの文書は、1世紀のユダヤ教の中で、どのように評価されていたかは分からなくても、キリスト教が最初からこれらの文書を旧約聖書の他の文書と同じように、権威のある書として用いていたということは確かです。初代教会は、ユダヤ人たちが2世紀の終わりに除外した七つの文書を含む、四十六の文書を聖書として、382年のローマの教会会議、393年のヒッポン教会会議、397年のカルタゴ教会会議において、正式に承認しました。

キリスト教の立場から考えれば、使徒の後継者である司教たちに、新約聖書の正典を承認する権威があったように、旧約聖書の正典を承認する権威もあったと言えます。したがって、ユダヤ教のラビたちの決定に従う必要は、キリスト教側にはなかったのです。

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