3.聖書の解釈

聖書は、私たちの救いのために必要な真理を誤ることなく伝えていると認めたとしても、この真理を正しく真理として、どのように見分けることができるか、また別の言い方をすれば、聖書を読んで自分に見えてきたことは、神が私に伝えたかったことであるかどうかということを、どのようにして正確に知ることができるのでしょうか。というのは、聖書において神の言葉は、人間の言葉で表現されていますので、他の人間の言葉と同じように、この言葉からいろいろな意味を読み取ることができる、つまり、この言葉のいろいろな解釈が可能である、しかもその中には間違った解釈すら可能であるということです。このような可能性は、聖書を読むに当たって、現実的で、非常に大きな問題となるものなのです。

第2バチカン公会議の公文書「神の啓示に関する教義憲章」は、この問題について、次のように述べています。「神は聖書の中で人間を通して人間の方式で語ったので、聖書の解釈者は、神が何をわれわれに伝えようと欲したのかを見極めるためには、聖書記者たちが実際に何を表現しようと意図したのか、神が彼らのことばによって何を明らかにしようと望んだのかを、注意深く研究しなければならない」(『啓示憲章』12)。要するに、神が私たちに何を語っておられるかということを読み取るためには、まず、聖書記者たちが何を伝えようとしたのか、また、当時の読者はこの文書をどのように読んでいたのかということを、正しく理解する必要があるということです。

聖書記者たちの意図を理解する

「聖書記者たちの意図を発見するために、当時の状況と文化、当時使われていた『文学類型』、当時普通であった感じ方、話し方、物語り方を考慮する必要があります。『実際、種々の方式での歴史的な、あるいは預言的な、あるいは詩的な書において、またその他の表現形式において、真理は違った方法で語られ、かつ表現されています』」(カテキズム110)。

考えてみれば、そもそもの本文が書かれた言葉さえ知らないがゆえに、翻訳でしか読めない聖書の一般読者には、読んでいる文書の表現形式や文書が関連している歴史的な状況をある程度まで意識することができたとしても、この文書の原語でのもともとの意味を読み取ることは、全く不可能です。したがって、「聖書記者たちの意図を発見する」ことは、聖書を専門的に研究している学者たちの仕事となるわけです。ですから、私たちは、聖書をより正しく理解するために、学者たちが編集した聖書辞典や注解書などを用いて、聖書記者が用いた言葉や当時の状況について勉強する必要があります。また、自分にも分かる言語のいろいろな翻訳を読み、それを比較することによって、言葉や表現の元々の意味や当時の使い方の理解を深めることも大切です。

聖霊の光のもとに読む

聖書を神の言葉として読む人にとって、人間が書いた文書を理解することは、神が語ってくださる言葉を理解するための手段です。神の言葉を見出すためには、人間の作者の言葉の真の意味に基づいて、聖書の作成に関わったすべての人を導いてくださった聖霊に照らされて聖書を読み、解釈しなければなりません。自分の理性だけを頼りにし、聖霊の導きを無視して、また、聖霊の存在や聖霊の働きさえも信じないで聖書を読むなら、他の本を読むことと全く同じことになります。せっかく聖書を研究して聖書記者の言葉の意味が分かったにもかかわらず、依然として神の言葉を理解することができないということになるわけです。聖霊の光のもとに聖書を読むためには、まず信仰と聖霊の導きに従いたいという望みが是非必要です。聖書を読む前に、聖霊の導きを願い求めることは、この信仰を新たにし、心を開くために大切なことです。聖書を読む前に、例えば、次のような祈りを唱えることができます。

「聖霊、来てください。
いつも、聖書の言葉を通して、私に語ってくださること、
神の愛を示し、正しいことを教え、励まし、
導いてくださることを感謝いたします。
神の語られる言葉を理解することができるよう、
私の心を開き、理性、感覚、記憶を照らしてください。
理解したことを実行し、愛に成長することができますように、
私の心をあなたに対する信頼と愛で満たし、力付けてください。
私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。」

けれども、聖霊の導きに従って聖書を読むつもりであったとしても、また、自分が聖霊の導きに従って聖書の言葉を解釈しているという強い確信を持っていても、実際には、自分の考えや望みに従い、場合によってはいろいろな先入観に支配されて、全く間違った判断を下すことも珍しいことではありません。このような危険性を避けて、実際に聖霊の導きに従って聖書を読み、それを解釈するために、第 2 バチカン公会議の公文書において教会は三つの規則を与えています(カテキズム112-114、『啓示憲章』12」)。

  • 第1の規則は、聖書全体の内容と統一性(一体性)に特別な注意を払うこと、
  • 第2の規則は、教会の生きた聖伝全体に従って聖書を読むこと、
  • 第3の規則は、信仰の類比を考慮に入れることです。

聖書全体の内容と統一性に特別な注意を払う

聖書に含まれている文書は、1000年以上の間に渡って、全く異なる状況において生きていた非常に多くの人々によって作成されていますが、同時に、神の自己啓示の発展と神の救いの計画の実現の過程を表すものでもあり、最初からはっきりとした目的を目指しておられた聖霊の導きに従って作成されたものです。つまり、神が聖書のすべての書の真の作者ですから、すべての書が、互いに矛盾していない神の言葉を伝えているのです。確かに、聖書記者たちは、互いに矛盾していることを伝えることもありますが、各々の文書によって伝えられている神の言葉を見出して、それに注目するならば、それら矛盾しているかのように見えた記述は、互いに矛盾していないだけではなく、補い合いながら、一つの真理を伝えているということが分かります。

例えば、創世記の第1章によれば、神に象って、神の似姿として創造された人間は、最初から男と女に創造されました。けれども、創世記の第2章によれば、神は、まず男を土から創造した後、女を男のあばら骨から創造しました。二つの異なる伝承を伝えているこの物語を表面的なレベルだけで見れば、互いに矛盾していて、一方が事実なら、他方は嘘になります。けれども、この物語が伝えている普遍的な真理を見出せば、二つとも、同じ人間の別の側面を表し、より完全に人間についての真理を教えているということが明らかになります。要するに、人間には、神ご自身に象られた霊的な次元、例えば、不滅の霊魂や愛する能力などがあると同時に、この世の一部としての肉体的な次元もあるという真理、及び、性別などの違いがあっても、すべての人は同じ本質を有しているがゆえに平等であり、互いに愛の対象になり得るという真理です。

旧約聖書の神は、正義の神で、厳しくて、時に残酷な方であるのに対して、新約聖書の神は、優しくて、いつくしみ深い方であるという印象を受ける人が非常に多くいるようです。けれども、このような印象は、聖書の表面的な読み方の結果に過ぎないものなのです。旧約聖書も、新約聖書も、同じ神の言葉ですし、同じ神を現しています。聖書全体は、イエス・キリストを頂点とする神の自己啓示の発展と、イエス・キリストの受難と復活を中心とする、神の救いの計画の実現の過程を伝えています。そこには確かに、啓示や救いの計画の様々な段階と、人間の様々な受け止め方や理解の仕方が見出せます。したがって、二種類の言葉、まずは、神の真の啓示と真の働き、すなわち神の言葉と、次に、人間の、時に不十分な、時に間違った反応や表現、すなわち人間の言葉とを区別して、旧約聖書を正しく理解するためには、イエス・キリストの行いと言葉、また、イエスの死と復活を基準にして、旧約聖書を読まなければならないのです。

しかし逆もまた言えます。つまり、新約聖書、もっと具体的に言えば、イエス・キリストの行いと言葉を正しく理解するためには、メシアが遣わされるための準備期間でもあり、イエスの生涯の環境、及び活動の舞台であった旧約聖書を読む必要があるということです。実に、新約聖書と旧約聖書は、互いに矛盾していないだけではなく、互いに照らし合っているのです。この事実を聖アウグスチヌスが、次のように美しく表現しています。「新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかとなる」(「七書についての諸問題」2・73、 カテキズム129)のです。

神の計画の一貫性の結果である、聖書全体の一貫性を認めることは、部分に注目したあまりに間違った判断を下したりしないためにも、非常に重要なことです。例えば、イエスが語った「放蕩息子」のたとえ話(ルカ15・11‐32)から、神は、回心した罪人を必ず受け入れてくださるという正しい決断を下す一方で、神は、たとえ話の父親と同じように、罪人の回心を待っておられても、この人の回心のためには何もなさらないという間違った結論を出すことも可能です。けれども聖ルカが、「放蕩息子」のたとえ話の前に載せた「迷い出た一匹の羊」のたとえ話(ルカ15・4-6)の中心的なメッセージを見れば、神は、罪人が回心するように、たとえ話の羊飼いと同じように働いておられることが分かります。つまり、聖書全体の一貫性に思いを致すならば、神がたとえ話の父親と同じように、罪人の回心のために何もなさらないという結論は、間違っているということも分かるわけです。実に神は、聖書全体が表しているとおり、罪人をご自分のもとに導き、愛の交わりに受け入れるために、常に働いておられます。そのためにこそ、御ひとり子を罪人のところに遣わしてくださったということも、また、イエス・キリストにおいて神ご自身が私たちのところに来てくださったということも、言えるのです。

要するに、聖書全体の内容とその統一性に特別な注意を払うということは、聖書全体が、一人の作者である神ご自身によって作成された一つの書物として認め、聖書の別々の個所から互いに矛盾しているような結論が出た場合には、その内の少なくとも一つの結論が間違っている(両方とも、間違っているという可能性もある)ということを認めることなのです。それは、また、いろいろな所から読み取った様々なメッセージの関連を見出し、それを一つの大きなメッセージに繋げること、あるいは、一つの個所から読み取った神の言葉によって、他の個所を照らし、その理解を深めることでもあります。

確かに、いくら考えても、いくら祈っても、他の個所で見出した神のメッセージと調和するメッセージを、どうしても見出すことのできない個所があります。けれども、神の言葉を信頼し、聖書を忍耐強く読み続け、読んだことを正しく理解するためにできる限りのことをし続けるなら、教会が教えているとおりに、聖書全体は、一貫した、調和のとれたメッセージを伝えているということ、つまり、表面的に読むときには全く関係がないと感じられたり、矛盾しているのではないかと思われるような書や個所は、実際には深く繋がっているということが少しずつはっきりと見えてきます。そのとき、本当に同じ霊がすべての聖書記者を導いてくださったのだということ、神ご自身が聖書の真の著者だという事実が実感できるのです。

おそらく、この実感は、聖書を忍耐強く読み続けることの一つの大きな実り、一つの大きな恵みです。この恵みを受けた人は、大きな安心と確信をもって聖書を読みながら、神との対話を続けることができると同時に、人類の歴史においても、自分自身の人生においても、神の働き、神の導きを見出すことができるようになります。結果的にこの人は、この世のいかなるものも与えることのできない安心と喜び、また、何よりも強い希望に満たされて生きるようになるのです。

教会の生きた聖伝全体に従って聖書を読む

ペトロの第二の手紙の中に次のように書かれています。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」(二ペト1・20-21)。「自分勝手に解釈する」とは、一人で聖書を読んだり、個人的に解釈することではありません。それは、イエス・キリストの証人、イエスご自身からイエスの名によって教える権威を授けられた使徒たちの教えを無視すること、また、彼らの教えに逆らうような解釈をすることです。

使徒性(使徒的性格)は、正典識別のための、第一の基準でしたので、新約聖書のすべての文書は使徒たちの教えを正しく伝えていると確信することができます。一方、使徒性が新約聖書の正典化の過程において第一の基準であったというのは、聖書が形成される前にすでに、教会は、聖書と異なる形において使徒たちの教えを持っていたということです。教会は、文書以外の形で使徒たちから受け継がれたものも、イエスの福音を忠実に伝えるものであると認め、それを聖なる伝承、「聖伝」と呼びます。

使徒たちは、3年以上にわたりイエス・キリストに従って生活し、イエスが語った言葉を聞くことによってだけではなく、イエスの行いやいろいろな人々に対するイエスの態度を見るこことによって、また、イエスと共に祈り、食事をし、旅をすることによって、また、他の様々な体験をすることによって、イエスから、言葉で表現できる以上のことを学びました。さらに、復活された後にも、イエスと接することによって、また、イエスが遣わしてくださった聖霊を受けることによって、使徒たちの考え方、生き方、すなわち彼ら自身が変わったのです。したがって、彼らは、イエスから与えられた使命を果たし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、説教したり、聖書に基づいて他のユダヤ人と論じ合ったりしただけではありませんでした。彼らは、自分たちの生き方、多くの奇跡を含む宣教活動、回心した人々に洗礼を授けること、キリスト者の共同体とその組織を作ること、また、他のキリスト者と共に祈り、貧しい人々を助け、共同体の生活によって、言葉のみで伝えることのできないことを伝えたのです。

聖パウロは、キリスト者たちに(後に新約聖書の一部となった)手紙だけではなく、口で伝えたことも、自分の生き方によって伝えたことも固く守るように呼び掛けています(二テサ2・15、一コリ11・1)。そのとおりに、教会は、2000年前から、聖パウロと他の使徒たちから受け継いできたことを、その教えと生活において、また典礼などにおいて保ち、それを次の世代に伝え、これからも、世の終わりまで、伝え続けるのです(カテキズム78、『啓示憲章』8)。

教会は、聖伝と聖書の繋がり、また、両者の重要性を次のように説明しています。「聖伝と聖書とは互いに密に結びつき、通じ合っている。というのは、神という同じ源から流れ出ている両者は、ある程度は一体であって、同一の目的を目指しているからである。実に聖書は、神の霊の息吹によって書き記されたものであるかぎり、神の語りかけであり、他方、聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばをその後継者たちに余すところなく伝達するものである。こうして彼らは、真理の霊に照らされながら、神のことばを告げ知らせつつ忠実に保ち説明し広めるのである。したがって、教会が、啓示されたすべてのことについて確信を得るのは聖書だけからではない。それゆえ、両者は等しく敬虔な心と尊敬の念をもって受容され尊重されなければならない」(『啓示憲章』9)。

私たちは、教会が保ってきた聖伝に従って聖書を読み、それを解釈するならば、使徒たちが伝えた教えを忠実に解釈しているという確信、すなわち聖書を正しく理解しているという確信を持つことができます。使徒たちから受けついだ聖伝は、聖書と同じように変わることがありませんが、教会の理解は時代と共に深まってきました。ですから、聖伝に従って聖書を読むとは、昔から伝わってきたことをそのまま繰り返すのではなく、聖伝に逆らわないように注意しながら、それを自分の現状に適用したり、現代の人に分かりやすい言葉で表現したり、その理解をさらに深めたりするということなのです。

信仰の類比を考慮に入れる

聖伝に従って聖書を読むつもりであっても、聖伝の間違った解釈をすれば、聖伝に従うことにはなりません。解釈を誤らないために、聖書を正しく読むための第3の規則は、信仰の類比を考慮に入れることです。この規則の意味を理解するためには、まず、使徒たちの後継者の役割と教会の教導職のことを理解する必要があります。

教会は、聖書と聖伝という形において、神の言葉(福音)という信仰の聖なる遺産を直接的に、または、間接的に、使徒たちから受けつぎました。この信仰の遺産を保つこと、それを説明すること、また、それを広めることは、使徒たちの後継者である司教たちの務めです。このような務めを与えられた司教たちは、聖ペトロの後継者であるローマの司教、すなわち教皇様と一致している教会の教導職です。実は、教会の教導職にだけ、使徒たちを通して教会に託された神の言葉であるイエスの福音を、決定的に解釈する権威があるのです。

教会の教導職について、第2バチカン公会議は、次のように教えています。「その権威は、イエス・キリストの名において行使される。もちろん、この教導職は神のことばの上にあるのではなく、これに奉仕するものであって、伝承されたものだけを教えるのである。すなわち、神の命令と聖霊の助けによって神のことばを敬虔に聞き、尊く保ち、忠実に説明する。しかも、神により啓示された信じるべきこととして提示するすべてのことを、この一つの信仰の遺産からくみ取るのである」(『啓示憲章』10)。

ですから、聖伝に従って聖書を読み、使徒たちが伝えた教えに忠実に聖書を解釈したいなら、自分の考えよりも、教導職による教会の正式な教えを優先するべきなるのです。つまり、自分の判断が教会の教えに矛盾するならば、間違っているのは、教会ではなく、自分の方であるということを率直に認め、間違った判断を手放すことです。こうして、教会の教えは、聖書を読む人を間違った解釈から守ります。

一つの例として「罰」のことを考えてみましょう。新旧約聖書の多くのところで、「神が罰を与える」と述べられています。教会の教えを知らずにそのような個所を読むなら、神はいつくしみ深い父であるのではなく、この世の権力者のように自分の権利を守るために、それに逆らった人に復讐するような方、あるいは、無慈悲な審判者のように、人の内面的な状態や動機を無視して、この人の善を全く考えずに、法律に定めた刑罰を下すような方であるというような間違った判断を下すことがあり得ます。けれども、罰と言われているのは、「外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです」(カテキズム1472)という教会の教えを知ったならば、神は、罪を犯す人が罪の結果を味わうことを許しても、罪人を罰するために、彼をいろいろな困難に合わせたり、彼にいろいろな苦しみを与えたりするような方ではないということが分かります。罰についての教会の教えを土台にして聖書を読むなら、間違った結論を出すのを避けることができるだけではなく、今まで決してありえないと思った個所にも、イエス・キリストが現してくださったいつくしみ深い父の姿を見出すことができるのです。このように、教会の教えは、聖書を読む人を間違った解釈から守るだけではなく、聖書の言葉の理解を促し、それを深めるのです。

考えてみれば、初代教会のキリスト者は、新約聖書を読む前に、使徒の教えを熱心に聞き、使徒たちが伝えた伝承を受けて、それに従って生きてきました(使2・41-42)。使徒たちの教えは、新約聖書に属する書を識別する基準になっていただけではありません。使徒たちが、イエスがなさったことや教えてくださったことに基づいて、旧約聖書を読んではじめて、言葉の真の意味を見出したように、キリスト者は、使徒たちから受けついだことに基づいて新約聖書と旧約聖書を読んで、その言葉を理解していたに違いありません。使徒たちの教えを伝え、それを正しく解釈している教会の教えに基づいて聖書を読む私たちも、間違った解釈を避けることができるばかりか、その教えを知らずに読んでいたときには全然分からなかった言葉の意味が分かり、また、部分的にしか理解していなかった個所をもっと深く理解することができるのです。

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