4.聖書の霊的な意味

どんな書物を読むときにも、それを読む目的によって、読み方自体も、その結果も変わるものです。聖書も同じです。聖書を神の言葉として読みたいならば、聖書が作成された目的、つまり私たちが救いのために必要としている真理を伝えるために書かれた書物であるということを意識し、その真理を見極めるために読まなければなりません。前に述べたように、人間の作品でもある聖書を通して神が伝えてくださる真理を見出すためには、まず、人間の作者の意図を理解する必要があります。聖書記者が書き記した文書を通して表現しようとした意味は、伝統的に「文字どおりの意味」、または、「字義的意味」と呼ばれています。また、神がこの文書を通して伝えてくださる真理は、「霊的意味」、または、「霊性的意味」と呼ばれています。文字どおりの意味と霊的意味は、特に新約聖書において、同じであることがよくあります。それは、聖書記者が救いのための真理を直接的に表現しているからです。けれども、特に旧約聖書において、聖書記者が、自分で書き記した文書を通して、どのような真理を伝えているかということがはっきりと分からなかったことは、珍しくありませんでした。この真理は、イエスの死と復活、また、イエスが啓示してくださった他の真理によって、はじめて明らかにされたのです。

カトリック教会のカテキズム(115、117)において、霊的意味は、寓意的意味、道徳的意味、天上的意味に細分されています。したがって、正確に言えば、文字どおりと霊的という二つの意味をもっている聖書には、四つの意味、すなわち、文字どおりの意味、寓意的意味、道徳的意味と天上的意味があるということになるわけです。「これら四つの意味は根本的には一致し、教会の中にあって聖書を読むとき、読書を豊かにするものです」(カテキズム115)。次に三つの霊的な意味を、ひとつひとつ見て行きましょう。

寓意的意味

聖書の本文は、直接的にいろいろな人物や出来事、また、場所やものについて語っても、多くの場合、間接的にイエス・キリスト、また、イエス・キリストの救いの働きについて語っています。ですから、聖書を読むときに、今読んでいる個所をイエス・キリストと関連づけて考察することは、非常に有意義なことです。

例えば、イスラエルの民の過ぎ越し、つまり、エジプトから解放され、紅海を通過したことは、キリストの過ぎ越し、つまり、イエスの死者の中からの復活、また罪とその結果である死に対する勝利を意味します。兄弟によってエジプトに売られたものの、結果的に自分の家族を助けたヨセフ、また、イスラエル人をエジプトから導き出したモーセは、救い主の前表、または、表象です。

道徳的意味

聖書において、神が与えてくださった戒め、また、イエス・キリストの教えや聖パウロのいろいろな指示は、私たちに真の善と真の悪を示し、正しい価値観と同時に、正しい生き方をはっきりとした仕方で教えてくれます。けれども、聖パウロが語るとおりに、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(一コリ10・11)。ですから、表面的には、正しい生き方についての教えと関係のない出来事や物語やいろいろな人々の働きや経験なども、私たちを正しい行動に導く可能性がありますので、聖書のあらゆる書、あらゆる個所を読むときに、自分がより正しく生きるための導きやヒントを求めることが、大切です。

聖書から正しい生き方を学ぶことは大事ですが、決定的な変化、つまり、私たちの生き方と共に私たち自身を実際に変えるのは、学んだことを実行することです。学んだことを実行することによって、私たちは、「古い人」を脱ぎすてる、つまり、正しくない生き方を少しずつ諦めると同時に、「新しい人」を身に着ける、つまり、正しことを行うように努めます。それによって、正しい生き方が少しずつ自分の自然な生き方になっていき、聖霊の導きに対する信頼が深まり、聖霊の働きに対して心が次第に広く開かれてゆき、聖霊の導きに段々と敏感になります。その結果、聖書を読むときにも、日常的な体験においても、聖霊が私たちに語る言葉を一層正しく、一層はっきりと理解することができるようになります。

天上的意味

神は、人間にご自分を求めさせ、人間をご自分のもとへと引き寄せるために、人間の創造の目的である、神の国や永遠の命とも呼ばれる天国のすばらしさを、いろいろな出来事や言葉を通して現してくださいます。ですから、聖書に記されているいろいろなことがらや出来事から、永遠の意味を考察することもできます。

ダキアのアウグスチヌスは、以上の四つの意味を簡単に次のように表現しています。すなわち、「字義は出来事を、寓意的意味は何を信じるべきかを、道徳的意味は何を行うべきかを、天上的意味はどこに向かうべきかを教える」、と。

1993年4月15日に教皇庁聖書委員会が発行した「教会における聖書の解釈」は、霊性的な意味を次のように定義し、聖書を読む人がそれを見極めるために重要なことを次のように記しています。

「一般的原則によれば、霊性的意味とは、キリスト教信仰にしたがって理解されるもので、聖書本文を聖霊の影響のもとで、キリストの過越秘義とそこから来る新しい命の文脈の中で読むとき、その本文によって表現されている意味であると定義することができる」(1413)。

「霊性的意味を、想像や知的推論によって導かれる主観的解釈と混同してはならない。それは、聖書本文がその本文にとって外のものではない実際の事実、つまり過越の出来事とその汲めども尽きぬ生産力と関係をもつことにより湧き出てくるものである。この過越の出来事こそ、全人類のためにイスラエルの歴史の中でなされた神の介入の頂点である」(1416)。

「共同体の中にしても個人的にしても、霊性的解釈が正真正銘の霊性的意味を見出すのは、ただこの展望にとどまっている場合だけである。そのとき、聖書本文と過越秘義と聖霊における命の現状という3つの位相の現実が関係しあう」(1417)。

要するに、洗礼を受け、神の命にあずかって、キリストの弟子、また、神の子どもとして生きている人は、聖書の本文を忠実に読むと同時に、自分が生きている現状を意識しながら、聖霊の導きに従って、イエス・キリストがご自分の死と復活によって成し遂げた救いのわざを土台にして、聖書を読むならば、どんな時代、どんな文化であれ、自分が生きている具体的な状況において最も必要な真理、最適な導きを見出すことができるのです。

教会の2000年の歴史において、聖書をこのように読むために、様々な具体的な読み方が提案されてきましたが、その代表的なものとして、多くの聖書の読み方や神の言葉の黙想の仕方の基礎にもなっている、レクティオ・ディヴィナ(霊的な読書)について最後に紹介したいと思います。

次へ