4.「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ(た)。」

私たちの罪のあがないをもたらした神の子であるイエス・キリストの受難と十字架上の死は、昔と同じようにある人をつまずかせるもの、他の人にとって愚かなもの(1コリ1,23-25)です。全能の神が十字架の死刑のような残酷で、醜い方法によって、人類を救ってくださったことは、独り子の受肉と同じように人間の想像力と理解力を超えていますので、この神秘に関して、多くの間違った解釈が存在しています。このうち一つの間違った考え方とは、イエス・キリストは罪を犯した人間の代わりに、神から罰を受けたことによって、神の正義感を満たし、人間の罪に対する神の怒りをなだめたというような考え方です。このような過ちを避けるために、キリストの十字架の意義を理解しようとしている時には、次のような教会の二つの教えを前提にしなければならないと思います。

第一は、「これまでに行われた最大の道徳的な悪は、神の御子を排斥し殺害したことです。これはあらゆる人間の罪が原因ですが、神は満ち溢れる恵みによって、そこから最大の善であるキリストの栄光とわたしたちのあがないを引き出されました。とはいえ、悪が善になるわけではありません。」(カトリック教会のカテキズム 312)という教えです。イエスの受難と十字架上の死は、人間が行った「最大の道徳的な悪」ですので、神にはこの悪を人間にとって最大の善である私たちのあがないに変える力があったとしても、善そのものである神は、そのような悪を求めることや図ることが決してないのです。けれども、全知である神は、御独り子が人間によってどのように扱われるかということを必ずご存知であったし、神の意志に逆らう人間の仕業であったこの最大の悪事を人間の救いのために役に立たせる力を持っておられたゆえに、それを許し、ご自分の救いの計画をこれに合わせたということが言えるでしょう。

キリストの十字架を解説する時に前提とすべき第二の教えは、罪と罰に関する教えです。「大罪はわたしたちの神との交わりを断ち、その結果、永遠のいのちを受けることを不可能にします。この状態は、罪の結果として生じる「永遠の苦しみ(罰)」と呼ばれます。他方、小罪も含めたすべての罪は、被造物へのよこしまな愛着を起こさせます。・・・この二種類の苦しみ(罰)は、外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです。・・・」(カトリック教会カテキズム1472)つまり、罪を犯す人は、神との繋がりを緩くし、場合によって、それを切ります。同時に、罪の対象となっているものとの依存関係を結びます。言い換えれば、罪は人間を神から遠ざけると同時に、神以外の何かと繋げるのです。神との絆が弱くなりながら、他のものとの絆が固くなればなるほど、人間が自由を失い、命の源である神のもとに戻れなくて、神のゆるしを受けることができないという絶望的な状態に陥るのです。このような状態は、神による罰ではなく、罪の結果、つまり人間の選択とその選択に基づく人間の行動の結果なのです。従って、私たちが救い主を必要としていたのは、神が私たちに対して怒っていて、罰を与えるのを諦めようとしなかったからではありません。私たちは、私たちを愛しておられるゆえに、私たちをいつでもご自分との交わりに受け入れたいと望んでおられた神から離れすぎ、罪のとりこになっているので、自分の力だけではもどることができなかったからこそ、救い主を必要としていたのです。

最大の悪であるキリストの十字架上の死は、この現実をはっきりと現しています。イエス・キリストにおいて神ご自身が私たちのところに近づいてくださったにも関わらず、人々は、自分たちの命と幸福の源である主を喜んで迎え入れる代わりに、そのような酷い目に合わせて、殺してしまったということです。人間は、現在でも、自分の命や愛という賜物、また他の多くの恵みを悪用しようとすることによって、それを無駄にしてしまう時に、同じように罪の暗闇に生きている無力なものであることを表しているのです。言い換えれば、罪を犯すことによって、二千年前の人々と同じように、私たちもイエス・キリストを排斥し、十字架に付けるのです。その意味で、キリストの死は、二千年前の人々の責任だけではなく、罪を犯している私たちの責任でもあると言えるわけです。

神は、イエス・キリストにおいて人間となって、私たちと同じ人間性を受け、この人間性によって私たち一人ひとりと結ばれました。さらに、イエス・キリストを人々の手に引き渡すことによって、神はご自身を私たちの手に引き渡してくださいました。それこそ、私たちへの愛を表す神ご自身の奉献、神ご自身のいけにえと同時に、神との愛の交わりへの招きの最も強い表現なのです。確かに、人類を代表していた人々は、イエス・キリストを排斥し殺害することによって、この招待を拒否しましたが、幸いに、この人たちは人類の唯一の代表者ではありませんでした。私たちの仲間であるイエス・キリストも私たちを代表していたのです。イエスは、一生涯、受難と十字架上のような究極的な状況においても、神の望みに従って愛に生きたことによって、神の招待を受けて、神の愛に完全な愛を持って応えたのです。十字架上のイエスの姿は、醜くてもこの完全な愛の表現になっているのです。イエス・キリストは、神に無限の愛を奉献したからこそ、その時まで存在していた人々が犯した罪と、その時から世の終わりまで存在するすべての人々が犯す罪が破壊する神との関わりを回復して、私たちを神と和解させたのです。全人類が犯すすべての罪をはるかに超えている無限の愛による神との関わりの回復こそ、罪のあがないなのであり、絶対に破ることのない、新しい永遠の契約なのです。

イエス・キリストはご自分の愛のいけにえによって、私たちを神と和解させてくださいましたが、同時に聖パウロが語る通りに、「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問」わない(2コリ5,18-19)のです。つまり、罪のあがないのわざは、人間であるイエス・キリストのわざでありながら、神ご自身のわざでもあります。けれども、だからと言って、人間が神の命にあずかるためにもう何もしなくてもいいということではありません。「神はキリストによって世を御自分と和解させ」たことを語った後に聖パウロは次のような言葉を付け加えます。「また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(2コリ5,19-20)つまり、人間は、神の命にあずかり、人生の目的であり、人間の最高の幸福である神との愛の交わりに実際に生きるようになるために、聖パウロのように、イエス・キリストを受け入れることによって、もうすでに実現されている神との和解の恵みを受け入れることと、イエス・キリストと共に、イエス・キリストのように愛に生きることによって神以外のものへの「よこしまな愛着」を無くすことが必要なのです。神は、現在いろいろな仕方を以て、特にキリストの教会の諸働きを通して、すべての人々に向かってこの和解の恵みを受け入れるようにと呼びかけていますが、それは、イエス・キリストの復活と昇天によって可能になったものなのです。

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