5.「陰府に下り、三日目に死者のうちから復活し」た。

創造主である神は、初めから人間が永遠に神の愛に生きることを求めておられましたので、人間を自由意思を持つ、つまり愛する能力のある不滅な存在として創造してくださいました。残念ながら、人間は、神の導きに逆らって、自分の勝手な思いに従って幸せになろうとして、幸福の源であると同時に命の源である神から離れてしまったのです。結果的に、聖パウロが教えている通りに「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」(ロマ5・12)

人間は、肉体と霊魂から成っている存在、つまり肉体的な存在であると同時に霊的な存在です。人間の死とは、体と霊魂の結合の破壊です。要するに人間の霊魂が体から離れたら、人間が亡くなるということです。確かに、人間の霊魂は不滅なものですので、体から離れても存在し続きますが、霊魂だけが人間ではありませんので、霊魂は存在していても、人間が存在しなくなります。人間は、創造主の元々の望みにしたがって人間として永遠に生きるために、滅びた体の復活と、この体の霊魂との結合の回復が必要です。それは、イエスの復活によって可能になったのです。

復活が可能になる前に、霊魂は人間の体から離れた後に、陰府と言われていた「ところ」に行ったとユダヤ人たちが信じていました。私たちは、イエスが「陰府に下った」と言うときに、イエスが人間として本当に死んだこと、イエスの霊魂が他の死者の場合と同じように、「死者の国」に入ったことを認めるのです。しかし、イエスの場合は、それが終わりではありませんでした。イエスは、復活したので、神の神性を所有しているゆえに死ぬことのない御独り子としてだけではなく、私たちと同じ人間性を持つ人間としても永遠に生きるようになったわけです。

イエスが復活していたところを誰も見ていなかったようです。しかし、イエスが本当に復活したことを裏付ける幾つかの歴史的なしるしがあります。まずそれは、空になった墓です。イエスが葬られた墓が空になったことを伝えているのは、実際にそれを見たイエスの弟子だけではなく、イエスの墓を警備していたローマの兵卒と、弟子たちがイエスのご遺体を盗んだと言い広めるためにこの兵士に命じて、お金を払った祭司たちです(マタ28・11-14)。

イエスの墓が空になったとは、その中には何もなかったということではなく、ただイエスのご遺体が無くなっていたということです。不思議に、イエスのご遺体が無くなっても、ご遺体を包んでいた亜麻布が残っていました。しかしそれは、誰かがこの布をイエスの体から外したような状態ではなく、イエスの体がそれを包んでいた亜麻布の中から蒸発したかのように(下の図参照)、体を包んでいたときの状態そのままに置いてあったのです。恐らくそのために、「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(ヨハ20・8)でしょう。弟子たちの証言に基づいて新約聖書が伝えている通りに、復活したイエスは多くの弟子たちに、40日に渡って何回もご自分を現していました。けれども、弟子たちは、復活したイエスに会っても、イエスが復活して生きていることをすぐに信じたのではなく、初めのうちはイエスが亡霊であると思っていたようです。使徒たちの「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」(マコ16・14)イエスは、亡霊でないことを証明するために、亡くなる前と同じように食べたし、傷跡を見せて、この傷に触れること、またその中に指や手を入れることを許したのです。「そして、マタイが報じるところによれば、ガリラヤでの最後の出現のときでさえ、「疑う者がいた」(マタイ28・17)のです。ですから、イエスの復活は弟子たちの信仰(または信じやすさ)が作り出したものだという憶測は筋が通っていません。そうではなくて、使徒たちの復活信仰は、復活したイエスに現実にお会いするという直接的な体験から―神の恵みの働きのもとに―生まれたものなのです。」(カトリック教会のカテキズム644)要するに、キリストの死のことで失望して、恐れに満ちたゆえに散らされた弟子たちが再び集まって、イエスの復活を信じることにしたから信じたのではなく、復活したイエスと出会ったからこそ、イエスによって励まされ、力付けられて、復活を中心とする信仰の共同体になり、命をかけてこの信仰を宣べ伝えるようになったのです。

復活したイエスは、亡くなる前と同じ人間であることを、いろいろな仕方で示してくださいましたが、同時に、前に持っていなかった新しい特性を表しています。弟子たちがなじみの姿で現れただけではなく、園丁の姿とか、旅人の姿で出現したり、戸に鍵がかかっても弟子たちがいた部屋に自由に入ったりすることができました。要するに、イエスの体はもはや区間にも、時間にも制限されていないようになったということでした。この特性は、この世の体の特徴ではなく、栄光のからだの特性なのです。それを見ると、イエスの復活は、ただのよみがえりではなかったということが分かります。イエスによってよみがえらされた人(ラザロ、ヤイロの娘、やもめの息子)は、地上の生活に戻って、前と同じように生きて、最終的にまた死にました。このよみがえりは、神の望み、つまり神はすべての人々を死から解放したいという望みと、神にこの望みを実現する力あることを現すしるしであり、また、神が必ず人間を死から解放してくださるという約束でした。「キリストの復活は、本質的にこれとは異なります。復活したからだをもって、キリストは死の状態から時空を超えた別のいのちに移ります。復活したときのイエスのからだは、聖霊の力に満たされています。栄光の状態で神のいのちにあずかっているのです。ですから、聖パウロはキリストを天に属する人と呼ぶことができました。(一コリ15・35-50)」(カトリック教会のカテキズム646)

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14・6)という宣言をしたり、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハ11・25)とか、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ28・20)という約束を与えたりしたイエス・キリストの復活は、イエスが語ったすべてのことを確証し、それに意義を与えるものです。ご自分の復活によって、イエスは預言者を通して神が与えた約束とイエスご自身が与えた約束を成就しました。「十字架につけられたイエスの復活は、このイエスが真に「わたしはある」というかたであり、神の御子であり、神であることをあかしするものです。」(カトリック教会のカテキズム653)。また、復活によってイエスは、罪の結果であった死に打ち勝って、「永遠の命への門を開いた」、つまり、私たちも復活し、神の子どもとして永遠に生きるという可能性を創ってくださいました。聖パウロは、これについて次のように語ります。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。……アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(一コリント15・20-22)。

イエスの復活はまた、神の愛の力強さを現しました。つまり神は、死よりも、他のすべての悪よりも強い方であり、神の計画を滅ぼす力が存在しないことを現したとともに、神は誠実な方であり、ご自分に信頼する人を失望させることが絶対にないということも表しているのです。それによってイエスは、ご自分を信じる人々を死と苦しみに対する恐怖から解放してくださるわけです。

復活したイエスは、今も生きておられますので、イエスに出会い、イエスを受け入れ、イエスと共に生きることによってすべての人々は、この地上にとどまりながら、神の国の喜び、そのすばらしさを味わうことができますし、父である神の望みに適って生きることによって、永遠の命、つまり神との完全な愛の交わりに向かって歩むことができるのです。

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