ユダヤ人たちは、神が預言者を通して約束してくださった(イザ11・1-19)新たな王国を待望していました。この王国は、メシアによって実現されると確信していたので、ご自分の復活によって、神が遣わしてくださった真のメシアであることを示したイエスに使徒たちは、次のように尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使1・6)。これに答えてイエスは、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使 1・7-8)と言われました。つまり、イスラエルのために国がいつ建て直されるかということを教える代わりに、イエスは使徒たちを全世界に遣わして、使徒たちがイエスを証しし、福音を宣べ伝え、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることによって、新しい神の民を集め、神の国の建設に協力するという使命を彼らに与えたのです(マタ 28:18-19)。十日後に、約束の聖霊が遣わされたことによって、イエスの神秘的なからだである教会が誕生しましたので、この教会を通して、イエスは、成し遂げてくださった救いの賜物をすべての人々に配り、救いの働きを継続しておられるのです。教会の時代は、救いの歴史の最後の段階なのです(1ヨハ2・18)。この期間は、世の終わりまで、つまりイエスがご自分の栄光に包まれて、力を持って誰にも見える形で再びこの世に来られるときまで続きます。
ご自分の受難と死、また復活によってイエスは、すでに人類のすべての罪をあがない、死と悪、神と人間の敵であるサタンに打ち勝ったのです。それから、「天と地の一切の権能を授かって」(マタ28・18)、全世界の真の支配者となられたのです(エフェ1・20-22; 4,10; 1コリ15,24.27-28)。けれども、イエスは、この権威や権能を有りのまま表しておられないので、イエスの死と復活によって世界が全然変わっていないような印象、イエスが成し遂げてくださった救いのわざは私たちに何の影響も及ぼしていないような印象を受けても不思議ではないでしょう。どうしてイエスはご自分の権威と権能、また、ご自分の栄光を全面的に表していないのでしょうか。どうして、殆ど目立たずに、隠れているかのように働いておられるのでしょうか。どうして、もうすでに滅ぼしてしまった敵に働くことと悪事を行い続けることを許しておられるのでしょうか。
おそらく、このようなイエスの働き方に、私たちに知らない理由があるのでしょうが、イエスが成し遂げてくださった救い、しかも、イエスがすべての人々にあずかってもらいたいと望んでおられる救いとは何であるかということを意識すれば、少なくとも一つの大事な理由が分かるのではないかと思います。この救いとは、三位一体の神と愛の交わりに生きること、そして、人間を神と結ぶ愛が完成されたら、この人が神と一体になるということなのです。ですから、この意味での救いにあずかる唯一の方法というのは、やはり神と人間の間の唯一の仲介者であるイエスを愛すること、この愛によってイエスと結ばれることなのです。けれども、イエス・キリストが示してくださった通りに真の愛、つまり完全な一致につながる、二人のペルソナを結ぶ絆となれる愛とは、相手のすべてを受け入れて、自分自身のすべてを相手に与えるものなのです。そのために愛は、義理や義務と違って、人間の自由な決断、しかも無条件の決断ですので、誰も、全能者である神さえも、人間を愛するように強いることができないわけです。ですから、イエスは救いのわざを成し遂げても、誰一人強制的にこの救いにあずからせることができません。人間は、この救いの賜物を自由に受け入れなければならない、つまり、イエスの死と復活によって可能になった愛の交わりへの招きに自由に応えなければならないのです。
イエス・キリストは、ご自分の栄光、また、権威と権力を全面的に表したならば、人々は、特にイエスを愛していない人々は、非常に恐れたでしょう。もしかして、イエスを自分の主、自分の支配者として認めて、イエスに聞き従うようになったかもしれません。けれども、彼らの動機は、無条件の愛ではなく、世界の唯一の支配者に繋がることから来る利益の欲求か、この支配者に逆らう結果の恐れかであったでしょうが、無条件の愛ではないのです。不完全な人間にとって、イエスに対する無条件の愛、またこの愛の成長が可能になるのは、イエスの栄光、またその権威と権能が隠れている時、つまり、人間はイエスを恐れないし、期待しているような利益を得ていない状況の中だけです。と言っても、イエスは自分の栄光と権威を完全に隠しているわけではありません。イエスは、一人の人間としてこの世で働いておられた時に、ご自分が神によって遣わされたメシアであることを人々が信じるために十分なしるしを示してくださっていました。けれども、このしるしは人間の自由意志を奪い取るようなものではなく、人間の信仰を必要としているようなものでした。それと同じように、今も、人間の自由意志を滅ぼさないために、ご自分の栄光と権力を全面的に表していませんが、イエスを信じて、イエスを愛するようになるために、いろいろな仕方で、ご自分の愛、ご自分の栄光と権力を十分に表してくださっているのです。
イエスはご自分の栄光と権力を全面的に表していない世界において、イエスの弟子や神の国の市民になるのは、何の利益にもならない、何の価値もないように見えますし、イエスに従うためにいろいろな流行や風潮、また、多くの人々が持っている考え方や価値観に逆らわなければならないので、この生き方にいろいろな苦しみや危険、場合によって、命の危険も伴います。ですからイエスを本当に信じている人だけ、つまり、イエスに信頼して、自分の命をイエスにゆだねて、イエスを愛している人だけが、イエスの真の弟子、神の国の真の市民になれるのです。
イエス・キリストは、ご自分の栄光、また、権威と権能をありのまま、表しておられないことは、イエスを無条件に愛する可能性を与えますが、同時にイエスに逆らう可能性も生じるのです。そのために、この世界において真の支配者であるイエスを無視する人だけではなく、イエスに逆らう人、また、イエスに対して敵意を持ってイエスと戦う人もいます。それから、世界を支配しようとしている人、自分の力で世界を救おうとして、神無しの楽園をこの世において作ろうとしている人もいます。その結果としてキリストの神秘的なからだである教会と各々キリスト者たちが、無視されたり、排斥されたり、迫害されたりします。このような世界においてイエスに忠実に従うために、忘れてならないのは、どんな力も、私たちをキリストの愛から引き離すことができないし、私たちが負わされているあらゆる悪をイエスの力によって善のため、キリストから与えられた使命をより立派に果たすために利用することができるということです。それから、このような状態は、いつまでも続くのではなく、イエスが約束通り(ルカ 21:27))にご自分の栄光に包まれて、大いなる権威と権力を持ってこられるということなのです。そのとき、もはや誰もイエスに逆らうことができなくなり、誰もこの世の支配者とか、救い主の名を名乗ることができなくなりますし、イエスは、神の国を完成させるのです。イエスの再臨は、この世界を悪から清める時であり、神の国の実現のときであるゆえに、再臨の約束は、イエスを信じている人にとって大きな希望をもたらすのです。ですから、私たちは、「神の国が来ますように」と毎日祈るときに、初代教会のキリスト者たちが「マラナタ、主イエスよ、来てください」と祈ったように、主イエスが早く来られること、ご自分の栄光と権力を全面的に表してくださることを願っているわけです。
イエス・キリストの復活は、イエスの人間性に属していた可能性の実現ではなく、人間性の可能性を超えた神の働きでした。同じように神の国の実現は、この世にある一つの可能性ではなく、この世を超越しておられる神が持っておられる可能性であって、神の国の実現は、この世界や人類の発展の自然な結果ではなく、神ご自身の超自然な働きの結果なのです。神の国の初穂である教会は、誕生して以来絶えず悪の攻撃を受けても、表面的に見ればこの地上のイエス・キリストの活動が失敗で終わったように、教会の活動も失敗で終わっても、キリストの約束通りに、教会は滅ぼされることなく、神の国も必ず完成されるし、永遠に存続するという確信を持つことができます。そのために、最も大切なのは、成功することではなく、苦しみや死という価を支払わなければならないことがあっても、イエスに最後まで忠実に生きるということなのです。
教会の時代、教会全体と各々キリスト者がイエスから与えられた使命を果たす時代は、神と他の人々との愛の絆を作る時代です。人間は、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けることによってキリストの神秘的なからだの一部になって、その使命にあずかるようになります。けれども、洗礼はイエス・キリストが成し遂げてくださった救いにあずかるためにイエス・キリストご自身が与えてくださった確実な方法であっても、唯一な方法ではないということを忘れてはいけません。「神ご自身は秘跡に拘束されることはありません」(カトリック教会のカテキズム 1257)ので、私たちが知らなくても、神には、人々を救いに導くために、洗礼以外の手段もあるだろうと考えることができます。それから、洗礼を受ける結果であるイエスとの絆や神の命にあずかることは、決定的なことではないのです。与えられた使命を果たすことによって、この絆を固め、神の子として成長することができるように、イエスに逆らうことによって、イエスとの縁を切ることも、神から離れて、神の命にあずからなくなることも可能です。イエスは、たびたび目覚めるように(マタ 24:45-25:30)呼びかけたのは、イエスとの関係を深めるためですが、それだけではなく、この恵みを失わないためでもあったのです。人間は、実際にイエスとの愛の交わりに生きていることを他の人のために善を行うことによって表しています。けれども、私たちは、誰かがイエスの愛のために善を行っているということを必ずしも知っているとは限らないし、すべての良い行いは、必ずしも真の愛の表れであるということもありません(1コリ13・1-3)。そのために、今誰が本当にイエスに属しているか、誰が本当に神の国の市民であるかということを確実に知らないということなのです。けれども、今私たちの知らないこの事実は、イエスが再臨されるときに明らかにされますので、本人をはじめ、すべての人々が知るようになるでしょう。この時にイエスに対する私たちの愛は完全なものでなくても、真の愛であれば、完成されます。けれども、表面的にイエスを愛しているように見えても、その愛は偽りのものであった人の場合、または、神の愛と命、また神ご自身を選ぶ代わりに、他のものを選び、それに希望を置いて生きていた人々の場合は、彼らはイエスと何の関係もないことが明らかにされると同時に、神との愛の交わりに入る可能性もなくなるのです(マタ 7:23; 10:33; 25:12)。それこそ、イエス・キリストが再臨されたら、そのときに生きている人に対しても、その前に死んだ人に対しても行われる裁きなのです。