8.聖霊を信じ(ます)。

聖霊は、すでに旧約の時代に約束されました。預言者イザヤは、神によって遣わされるメシアが神の霊である聖霊によって満たされることを知らせました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」(イザ 11・1-2)イエス・キリストは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。」(ルカ4・18)と語ることによって、イサヤの預言がご自分において成就されたと宣言しました。イエスの教えを聞き、イエスの行いを見て、復活されたイエスと出会ったペトロは、イエスの宣言が事実であったことを証ししました(使10・37-38)。

聖霊によって満たされて、救いのわざを成し遂げられたイエスは、ご自分の弟子たちに聖霊を与えることを約束しました(ヨハ16・12-15、使1・8)イエスの約束通りに聖霊を与えられたペトロはエルサレムに集まっていた人々に向かって次のように呼びかけました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使2・38-39)このようにペトロは、神がご自分の霊をすべての人に与えたいことを知らせたわけです。

どうして神がすべての人々に聖霊を与えたいかということ、また、聖霊ご自身のことと聖霊の働きをある程度まで理解するために、三位一体の神秘を見る必要があります。神の内面的な命を現す三位一体の神秘は、人間の考察の結論ではなく、神ご自身がご自分を啓示することによって、人間に知らせたことなのです。この神の自己啓示について、 ナジアンズの聖グレゴリオは、次のように語ります。「旧約聖書は、御父を明瞭に、御子を漠然と告げ知らせました。新約聖書は御子を明らかにし、聖霊の神性を垣間見せました。今や、聖霊は私たちの間ではっきりと認められ、私たちにご自分を明らかに示されます。」元々イスラエル人たちは、他の民族と同じように沢山の神々を信じていました。けれども、この民の歴史の中で特別な働きをされた神は、ご自分が唯一の神、全世界の創造主、つまりあらゆる存在と命の源である父であることを知らせてくださいました。この世に来られた御独り子を通して神は、無条件に、また無限に私たちを愛しておられる救い主としてご自分を現してくださいました。私たちを最後まで愛し、ご自分の命をささげることによって、ご自分の使命を果たして、御父のもとに戻られた御子は、御父の霊であり、また、ご自分の霊である聖霊を遣わしてくださいました。現在聖霊は、教会の中で、また、教会を通して働いて、イエス・キリストが成し遂げられた救いのわざを完成に導く方としてご自分を現してくださっています。このように、救いの歴史の中で、神は、ご自分自身を唯一の神として、と同時に、御父と御子と聖霊という三位の方(ペルソナ)として啓示してくださったわけです。

三つの別なペルソナが唯一の神であることは、確かに非常に大きな神秘であって、私たちの理解力を超えるものですが、この神秘から少なくとも次のようなことが分かると思います。つまり、神は唯一でありますが、孤独な存在ではないこと、また、ご自分のためにだけ生きておられるのではなく、他者のために、他のペルソナのために生きておられる方であるということなのです。聖ヨハネが書き記した通りに(1ヨハ4・16)神は愛です。つまり神は、愛しておられる方であるのみならず、愛そのものなのです。ですから、三位一体の神秘は、実は、愛の神秘なのです。この神秘から、完全に愛し合う複数のペルソナは、一体になるほど完全に一致することが分かります。ですから、愛し合う人にとって死によっても破られない絆となっている愛は、完成させることによって、完全な一致をもたらすものであると言えるわけです。

他者を愛するとは、自分自身を相手に献身すること、また、相手をありのまま受け入れることであるということをイエスがご自分の生き方、特にご自分の死によって教えてくださったのです。御父から常に生まれている御子は、すべてを御父から受け入れて、ご自分のすべてを御父に与え、ご自分の存在を御父のための贈り物(賜物?)にされます。御父と御子の相互愛は、聖霊というペルソナになるほど、完全なものであります。この意味で、聖霊は御父と御子の相互愛の実りであり、人格的な愛であると言えるわけです。御父と御子と聖霊という三つの方が互いに愛し合っておられるとは、お互いに与え合い、また、受け入れ合うということです。御父と御子と聖霊の愛は、完全ですので、父と子と聖霊は完全に与え合い、完全に受け入れ合っておられる結果として、一体になっておられるわけです。

確かに、私たちはいくら探しても、この世の中でこのような完全な愛を見つけ出すことができません。けれども、心の中でこのような愛を求めていますし、このような愛だけが私たちの心を満たすことができるのです。なぜなら、私たちは、完全な愛の交わりである三位一体の神に象って、また、この愛の交わりにあずかるために創造された存在であるからです。神が人間を愛しておられるとは、人間にご自分を与えたいということ、また、人間を受け入れることによって、人間と一つになることを求めておられるということなのです。つまり、神が私たちを愛しておられるからこそ、私たち一人ひとりをご自分との愛の交わりに招いてくださるわけです。

幸いに、私たちはこの愛の交わりに招かれているだけではなく、イエスが成し遂げてくださった救いのわざによって、この招きに応えることも、神の愛の交わりに参与することも可能になったのです。実は、御父と御子が五旬祭の日に遣わしてくださった聖霊を受けることによって、弟子たちは神の愛と命を受け入れて、神との愛の交わりに生きるようになったのです。この時以来、聖霊は、弟子たちの中で働いて、彼らを三位一体の神との完全な交わり、つまり神との一致に導いてくださったのです。聖霊は、今でも遣わされていますし、今でも働いておられるのです。

人間を神との愛の交わりに導いて、神との一致を実現させるために聖霊は、信仰の恵みを与えてくださり(1コリ2・11;12・3)、神に近づくのを妨げるものを示してくださり(ヨハ16・8)、神の愛と命にあずからせてくださることによって、人間を神の子にしてくださいます(ロマ5・5;2コリ13・13;ロマ8・15)。要するに、罪によって死んでいたか、傷ついていた人間を「主と同じ姿に造りかえられて」(2コリ3・18)、「罪のためにそうではなくなっていたのに、再び神に似た者とされるのです。」(カトリック教会のカテキズム734)

ラオディセアの聖イグナチオスは、聖霊について書いた言葉は、聖霊の働きとその重要性をきれいに描いています。「聖霊がいなければ、神は遠い存在であり、キリストは過去のもの、福音書は死んだ文字、教会は普通の組織、福音を宣べ伝えるのはプロパガンダ、典礼はただの劇、掟に従って生きることは奴隷の道徳であったでしょう。けれども、聖霊の力によって、神は近い存在であり、復活したキリストはいつも共にいてくださる方、福音書は命の源、教会は生きている共同体、典礼は神と出会う場、掟に従って生きることは真の幸福となっていることなのです。それらすべてを聖霊が教会において実現するものです。」

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