9.聖なる普遍の教会、聖徒の交わり

多くの人は、教会を考える場合、その人間的な側面、つまり教皇、司教、司祭と信徒のこと、つまり教会の組織、または、教会の建物という表面だけを思い浮かべるのではないかと思います。「しかし聖書が示す教会は、かつては神のなかに隠されていたが、いまやあらわにされ、しかも部分的には既に実現している一つの神秘的事実をさす。」(聖書思想事典271頁)ですから、教会のことを知るために、まずこの世界に関する神の計画を知る必要があると思います。

宇宙万物の創造主である神は、世界のために計画を持っておられるとは、世界が偶然にできたものではなく、ある目的のためにできたものとして、意義のあるものであるということになります。この計画は、神の自己啓示の過程において少しずつ現されたものですが、イエス・キリストによって完全に現されたのです(エフェ1・9:ロマ16・25)。イエスは、世界全体、特に人間に対する神の望みをご自分の言葉と行いによって知らせてくださいましたが、次のイエスの言葉がそれを特に美しく表わしていると思います。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(マタ 23・37)イエス・キリストによる啓示に基づいて聖パウロは、神の計画を次の言葉を以て描いています。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェ1・10-12)要するに、神はすべてを一つに集めることを望んでおられるということです。キリストが宣べ伝え、実現してくださった「神の国」というのは、神における人類の一致、つまり神の計画の完成なのです。

神は、ご自分の計画を実現されるために世の初めから働いておられますが、イスラエルの歴史における神の働きは、特に重要な段階となっています。旧約時代の一番中心的な出来事とは、シナイ山で結ばれた契約であります。この契約によって、イスラエル人たちは、主である神を自分の神として認め、神は、イスラエル人をご自分の民にしてくださいました。言い換えれば、イスラエルは神と契約を結ぶことによって、神の民となったのです(申26・16-19)。こうして、神はイスラエル人の間で働かれることによって、救い主の到来を準備されたとともに、教会の誕生をも準備されたのです。

イエス・キリストが来られた時の世界の現状を聖マタイは、次のように描いています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタ9・35-36)このような現状にあった世界のための神の計画を実現するために、イエスは、ご自分の活動の初めから新しい神の民を集めて、この民の指導者を準備していました(マタ10・1;マタ16・18)。確かに、イエスの個人的な魅力、イエスの教えと行いは、人々を集める大きな力でしたが、イエスは、ご自分の十字架の死において人々を集める最も大きな力を見出していました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハ12・32)キリストの十字架上の死がもたらした実りについて、聖パウロは、次のように語ります。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(エフェ2・16-21)

聖パウロが語っている通りに、イエス・キリストはご自分で集めた人々を神と和解させることによって、この人たちを神と結ばれたのですが、それだけではなく、彼らを互いに神の命と愛である聖霊という深い絆によって結ばれたのです。そのために、この人たちは神の新しい民、神を父とする霊的な家族となったわけです。

確かにイエス・キリストは、教会である神の新しい民を集めてくださいましたが、教会が誕生したのは、イエスの弟子たちが聖霊を受けたとき、つまり聖霊降臨の日なのです。創造のときに、神は、土から人を形づくり、「その鼻に命の息を吹き入れられ」(創 2・7)てから、人間は生きる者となったように、イエス・キリストが神の新しい民、教会として集めてくださった人々の上に、聖霊が下ってから、教会が生きるようになりました。この日に起こった奇跡、つまり聖霊が与えてくださった最初のしるし(使2・1-12)が生まれたばかりの教会の使命を表わしています。その時、聖霊を受けた弟子たちは自分たちの母国語であったアラマイ語で話しましたが、五旬祭のためにいろいろな国からエルサレムに来た人々は、この話しを自分たちの言葉で聞いていました。このしるしの意味を理解するためにバベルの塔の物語(創世記11・1-9)を思い起こす必要があります。元々同じ言葉で語った人々は、高い塔を建てて天に入ろうとした、つまり、神を無視して自分たちの努力によって最高の幸福を手に入れようとした結果、互いの言葉が分からなくなって、協力することができなくなったという物語です。この物語が教えているのは、人間が犯す罪は人々の繋がりを破り、分裂を起こす、つまり聖マタイが描いているように「飼い主のいない羊」のような状態の最終的な原因となるということなのです。聖霊降臨の日に与えられたしるしは、 この物語と正反対のことを現しています。つまり、教会の中で、また、教会を通して働いてくださる聖霊は、元々関係のない人々を互いに繋げ、一つの神の家族にしてくださるということなのです。ようするに、聖霊によって生かされ、導かれる教会の存在の目的、またその意義とは、イエス・キリストから与えられた使命、「神の国が近づいた」という和解の福音をの宣べ伝え(マコ3・13-15、マタ 10・5-7;2コリ5・18-19)、すべての民をイエスの弟子にする(マタ28・18-20)という使命を果たすことによって、人々を神のもとに導き、神の民を発展させることであるのです。

教会の使命は、教会に属するすべての人の使命ですので、神の新しい民、つまり教会の一員になる目的とは、キリストと共に、また、同じ神の家族の一員となった兄弟、姉妹との交わりの内に生き、共に神を礼拝することだけではなく、自分の言葉、特に自分の生き方によって、キリストを証しし、福音を宣べ伝えるということなのです。この使命を果たすために信仰と洗礼によって神の民に加わる人は、誰でも「祭司、預言者、王」という三つのキリストの職務にあずかるようになります(1ペト2・9-10)。キリスト者は、「祭司」として神の子に聖別され、神の仲介者となります。「預言者」として使徒から受け継いだ信仰を証し、「王」として、人々に奉仕することによってキリストの救いのわざを世の中で実現していくのです。

教会の神秘、また、その本質と存在の意義を表すために、新約聖書の中で、多くの象徴が使われています。すなわち、羊の囲い(一コリ3・9)、キリストは入り口(ヨハ・1-10)、良い羊飼いであるキリストに守られている羊の群れ(ヨハ10・11-15)、耕作もしくは神の畑(一コリ3・9;マタ21・33-43)、ぶどうの木であるキリストに繋がっているぶどうの木の枝(ヨハ15・1-5)、捨てられたキリストがすみの親石となった神の建築、神の家族が住む神の家、神殿(一コリ3・9;マタ21・42;一コリ3・11;エフェ2・19-20;黙示12・7;21・1-2)、花婿であるキリストの花嫁、キリストの体(エフェ5・21-32)、「上にあるエルサレム」、「わたしたちの母」(ガラ4・26)などです。この象徴の理解を深めることによって、一人ひとりのキリスト者は教会のこと、また教会の一員である自分自身のことをより深く理解することができるのです。

カトリック教会のカテキズムは、教会を神の計画の完成の道と救いの秘跡と呼んで、教会に関する私たちの信仰を次のようにまとめています。「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具です」。人間と神との親しい交わりの秘跡であること、これが教会の第一の目的なのです。人間同士の交わりは神との一致に根ざすものなので、教会はまた、人類一致の秘跡でもあります。教会において、この一致はすでに始まっています。「あらゆる国民、種族、民族、ことばの違う民」(

黙示録7・9)から人々を集めているからです。と同時に、教会は、将来やってくるはずのこの一致が完全に実現した姿の「しるしであり、道具」でもあります。」(カトリック教会のカテキズム775)

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