10.罪のゆるし

罪のゆるしとは、どういうことであるかを理解するために、まず、罪そのものとは、何であるかを理解する必要があります。聖ヨハネが第一の手紙の中で次のように教えます。「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」(1ヨハ 3・4)この場合、「法」とは、人間が作成した法律のことではなく、命令や禁止の形をとる律法と言われている、神が与えてくださった掟と他の指示のことなのです。法律を作成する人々と違って神は、創造主として人間のことを完全に知り、人間を愛しておられるゆえに、私たちの幸福を求めておられる方ですので、神が与えてくださった掟と他の指示は、誤ることなく何が善であるか、また、何が悪であるかということを示すのです。その意味で律法は、人間のために実際に危険なものに対する注意であり、正しい道、つまり人間の成長と最終的に幸福に導く道を示す道標なのです。神の律法は、人間が作成した民法と違って、絶対に間違うことがありませんので、それに従うことは、本人にとっても、他の人々にとっても必ず良いことであり、それに逆らうことは、本人にとっても、他の人々にとっても必ず悪いことなのです。神が与えてくださった指示に従って生きることがもたらす良い結果は、「報い」と呼ばれることがあります。それから、神の指示に逆らって生きること、つまり人間が犯す罪がもたらす悪い結果は、「罰」と呼ばれることがあります。それについて、カトリック教会は、次のように教えています。「罪が二つの結果をもたらすことを理解する必要があります。・・・この二種類の苦しみ(罰)は、外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです。」(カトリック教会カテキズム1472)

カトリック教会は、人間が罪を犯した後に味わう苦しみは、神が罰として与えられるものではなく、罪そのものがもたらす結果であることをはっきりと教えているにもかかわらず、多くのカトリック信者は、自分が犯した罪に対して神が罰を与えられると考えているようです。また、神が人間の罪を見なければ、人間が自由に、つまり何の悪い結果もなしに、罪を犯すことができたと深く思い込んでいる人も少なくないようです。恐らく、このような思い込みは、日常経験から生じているのではないかと思います。というのは、子どもの時に、悪くなくても、危険でなくても、両親や先生、または、私たちに対して何らかの権威を持っていた他の人によって禁じられたことがあるのではないかと思います。そして、両親や先生が見なければ、禁じられたことをしても、何も悪いことは起こらなかったが、そのことが両親や先生に分かったら、罰せられることによって苦しい目に逢わされた経験があるでしょう。また、法律に違反しても、何も悪いことが起こらないことがありますが、警察に捕まるならば、刑罰を与えられることによって、苦しい思いをすることがあります。人間は、自分に対して何らかの権威のある人のそのような働きを、最高の権威を持っている神に当てはめることがありますので、多くの人は、神がこの世の権力者のように振る舞っておられると、つまり、人間が神の言いつけを破ったら、神によって罰せられると考えているわけです。

神の振る舞いとこの世の権力者の振る舞いとは、まったく異なっていますので、自分が権力者の言いつけを破ったり、法律に背いたりしたことに対する彼らの反応から、神について何も学ぶことができませんが、この経験から自分自身について学ぶことができます。考えてみれば、不注意で、まったく意識せずに、いろいろな決まりやルールを破ることがあるでしょうが、意識的に、両親や先生の言いつけに背いたり、法律や他の規則を犯したりすることもあるでしょう。そのような行動には、いろいろな動機があり得るが、そのうちに一つ重要な動機とは、両親や先生、それから、法律や規則を作った人よりも、自分自身の判断や他の人の言葉を信頼しているということなのです。それと同じように、神の掟に逆らうのは、それを知らないから、それとも、十分に注意しなかったからということがありますが、それを意識的にすることもあるでしょう。神の言葉に意識的に逆らうという意味での罪を犯すのは、自分の害になっても、神に反抗したい、自分の自立を表したいということがあり得ますが、多くの場合それは、神よりも、自分自身の考えや欲望、また、他の人の言葉を信頼するからなのです。自分の行動が、人間にとって本性的に悪いものであるならば、神の指示に逆らうものであるということが分からなくても、何らかの望ましくない結果をもたらすのは、自然なことです。けれども、人間が意図的に神に逆らうならば、その行いはその本性から生じる悪い結果以外に、もう一つの重要な結果、神との関係に関する結果をもたらします。考えてみれば、この世において人間は信仰、つまり神の言葉を受け入れることに基づく信頼、希望と愛によってのみ神と結ばれることができます。ですから、人間は、誠実な方である神を信頼しないことを表す罪を犯すことによって神を侮辱すると同時に、信仰と正反対であるこの行動によって、自分を神と結ばれる絆を弱めるのです。罪となる行いの重要性によって、人間を神と結ぶ絆が多少傷つけられることがあれば、人間が神との縁を切って、神との交わりを完全に失うほど神から離れることもあるのです。神は命の源ですので、神から離れることは、命の源から離れることであり、神と繋がらなくなることは、命の泉と繋がらなくなることですので、最終的に、聖パウロが教えている通りに、「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6・23)

確かに、いわゆる小罪、つまり、それほど重要ではないことにおいて神の言葉に背くことは、大罪、つまり重要なことにおいて意識的に神の言葉に背くことのように、神との関係が断たれるという意味での霊的な死をもたらすわけがありませんが、小さな罪を軽んじてもいいというわけもないのです。イエスが語られた通りに、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハ8・34-35)また、このイエスの教えと多くの人の経験に基づいてカトリック教会が教えている通りに、「小罪も含めたすべての罪は被造物へのよこしまな愛着を起こさせます。」(カトリック教会カテキズム1472)つまり、罪を犯すことによって人間は、罪の対象となっていたものとの依存状態に入るので、人間の自由意志が衰えていくということなのです。結果的に、罪を犯すたびに、正しいことを行うことも、罪を避けることも段々と難しくなっていくわけです。

多くの人にとって罪をゆるしてもらうように願うことは、自分に対して権威のある人、そして、その権威に基づいて罰を与えることのできる人に、この罰を免除するように願うことなのです。けれども、人間が体験する苦しみは、罰を与えない神の働きの結果ではなく、罪そのものがもたらす結果であるならば、なぜ罪を犯した人間が神に向かって罪のゆるしを願わなければならないのでしょうか。私たちは、罪のゆるしを神に願うときに、実際に何を願うのでしょうか。また、神は罪をゆるしてくださるときに、実際に何をなさるのでしょうか。

まず、イエス・キリストがご自分の言葉と行いによって教えてくださったように、神は罪を犯している人を愛しつづけてくださる、つまり、この人のために幸福を求めて、善を行い続けておられるのです。罪を犯すことによって、自分を神と結ばれた絆を弱めている人、場合によって罪の奴隷になり、神との交わりを失って、自分の滅びに向かって歩んでいる人にとって最善とは、このような状態から解放されることなのです。神が罪びとを愛しておられるとは、良き牧者が迷った羊を探し、群れに連れ戻すように、罪を犯すことによってご自分から離れた人に近づき、いろいろな仕方でこの人にご自分の愛を表してくださることによって、ご自分のもとに戻るように呼びかけてくださるということなのです。また、放蕩息子のお父さんが、家に戻ってきた息子を迎え入れたように、神が回心した罪人、つまり、ご自分のもとに戻った人を迎え入れてくださり、ご自分との交わりに受け入れてくださるということなのです。無条件の愛に基づくこのような神の働き、しかも自分の力だけでは、自由意志を取り戻すことも、永遠の死に導く道から離れることもできない人にとって唯一の希望、唯一のチャンスである神の働きこそが、罪のゆるしなのです。

このような意味での罪のゆるしは、罪を犯す前の状態にもどること、つまり、人生のリセットのようなものではないということを忘れてはいけません。罪をゆるしていただいた後にも大きな課題が残るのです。私たちは、カトリック教会カテキズム(1473)の中で教えられている通りに、神のゆるしを受けて、神と和解しても、罪に対する執着が残ります。この束縛から完全に自由になるために回心して、神と和解した人は、罪を犯す機会をさけたり、神の言葉に耳を傾けたり、祈りや秘跡によるイエスとの出会いの機会を増やしたり、イエスの教えを実行したりすることによって、キリストとの絆を強めるように努める必要があります。

神のゆるしを受けても、そのような問題、また、そのような働きの必要性が残っているならば、神のゆるしを受ける意味がないと考える人がいるかもしれません。けれども、実際に、神との正しくない関係に留まって、自分の力だけを頼りにする人は、たとえ全力を尽くしても、そのような努力において成功する可能性がないのですが、神と和解した人は、もはや一人ではなく、神と共に生きていて、自分の力によってだけではなく、神ご自身の力によって支えられているわけですから、この努力は成功すること、つまり人間は、愛に生きるために完全に自由になることは可能になるわけです。

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