導入

「私たちに祈りを教えてください」という弟子たちの依頼に応えて、弟子たちが唱えるべき祈りの言葉を教える前にイエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタ6・8)と教えてくださいましたが、「主の祈り」と呼ばれるようになったイエスが教えてくださった祈りは、実際に七つの願いが含まれている祈りなのです。天の父は、私たちが願う前に私たちの必要性をご存知なら、しかも、善人にだけではなく、悪人にも、正しい者にだけではなく、正しくない者にも(マタ5・45)、言い換えれば、祈る人にだけではなく、祈っていない人にも必要なものを与えてくださるならば、どうしてイエスが自分の弟子に父に向かって願うことを教えてくださったのでしょうか。

実は、「主の祈り」の中に入っている七つの願いは、神ご自身の最も大きな望み、つまり、父である神が人間に何よりも与えたいと望んでおられるもの、と同時に常に与えてくださる賜物を表しているのです。したがって、この祈りを唱える目的は、神が求めておられないことをさせる意味で神の心を変えることではなく、自分の心を変えること、つまり自分が意識的に求めていることを変えて心を開き、神が与えてくださる賜物を受け入れることなのです。というのは、神が人間に与えたいと望んでおられることは、人間に一番必要なものであって、実際に、人間なら誰でも心の奥深いところで求めているものですが、ほとんどの人々が自分に最も必要なことも、自分の心の最も大きな望みをも知らないために、それと異なるもの、場合によってそれと正反対のもの、つまり、自分にとって必要でないだけではなく、自分に害を与えるものを意識的に求めて、それを獲得しようとしています。言うまでもなく、人間は自分自身に必要でないもの、また、自分に害を与えるものを求めている限り、その努力は無駄です。場合によっては、非常に危険なものです。なぜなら、このような努力が成功すればするほど、人が不幸になっているからです。おそらく、自分の心の真の望みを知らずに、それと異なるものを求めることは、人間の最も大きな問題であって、人間の苦しみの最も大きな原因であるかもしれません。

私たちは、「主の祈り」を唱えることによって、自分の心の望みを少しずつはっきりと意識して、自分に本当に必要なものを少しずつ強く求めるようになることによって、自分の人生の歩みの方向が訂正されると同時に、自分の望みを神の望みに合わせることも、神が元々与えてくださる賜物を受け入れることもできます。そのために、人生の目的である神との一致が少しずつ実現されるのです。人間にとって最高の幸福の状態でもある神との一致こそが「主の祈り」を唱える最終的な目的であると言っても過言ではないと思います。

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1. 「天におられるわたしたちの父よ」