6. 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

イエス・キリストは、最も大事な掟として、「愛の掟」を与えてくださいましたし、ご自分の生き方を以て、私たちが見倣うべき、愛に生きる模範を示してくださいました。愛は、イエスの教えの中心であり、父である神の御心に適ったイエスの人生の最も大切な特徴でもあるから、神が人間から一番求めておられるのは、愛に生きることであると言えると思います。それにもかかわらず、人間に対する神の最も大きな望みを表す「主の祈り」の中には「愛に生きることができますように」という願いがないのです。

確かに「愛」という言葉が、「主の祈り」の中には、出てきませんが、愛こそが、「主の祈り」の七つの願いの「心」であり、この七つの賜物を父である神の手から受けるとは、実際に愛の恵みの具体的な形を受けるということなのです。おそらく、それは、自分に負い目のある人をゆるすこと、つまり、私たちに対して、何らかの悪事を行って、私たちに心の傷を負わせた人をゆるすことの中に、最もはっきりと見えるのではないかと思います。

私たちは、誰かに苦しめられたならば、同じような苦しい体験を再びすることがないように、相手から離れるか、自分の安心感を回復して、苦しみを和らげるために、何らかの手段をもって相手を傷つけて、自分の方が大きな力があることを示すことによって、相手が二度と私たちを攻撃しないように復讐することがあります。誰かに苦しめられたことに対するそのような反応は、ごく自然なもので、火傷した手を何も考えずにすぐに熱いところから引くことと同じような、全然意識しない反射的なものにもなっているのではないかと思います。けれども、相手をゆるさずに、相手に対してそのような態度を保つことによって、この人との関係が悪くなるだけではなく、他の人との関係、自分との関係、また、神との関係にも悪い影響が及ぼされます。言ってみれば、自分に負い目のある人をゆるさないことは、愛することを段々と不可能にする「心の癌」のようなものなのです。この病気を癒す唯一の薬とは、相手をゆるすことなのです。私たちから、また、私たちのために、何よりも愛に生きることを求めたイエスは、度々、私たちたちに傷を負わせた相手をゆるすように教えてくださったのは、この世に生きている内に度々いろいろな人に傷つけられている私たちが、傷つけられている度に相手をゆるすことによってのみ、常に愛に生きることができるからです。実は、イエスの教えに従って敵を愛するとは、私たちに対して敵意をもって、私たちに対していろいろな悪事を行い、私たちを苦しめる人を好きになるということではなく、少なくともこの人をゆるすということ、つまり、不正な手段をもって復讐したりすることを諦めること、そして、できることであれば、この人のために善を行うことなのです。

自分に負い目のある人をゆるすことは、真の愛の実践ですので、それが可能になるために、私たちは、愛の源である神と正しい関係に生きることによって、神から愛の賜物を受けなければなりません。そのために、イエスは、自分に負い目のある人をゆるすことを、神のゆるしを受けることと結びつけます。私たちが、どれほど大きな罪を犯しても、父である神をどれほど深く傷つけても、神は私たちを愛し続けておられるし、私たちが必要としている善を行ってくださいます。これによって、私たちがゆるしを願う前から、神は、私たちの罪を無条件にゆるしてくださることを示してくださいます。けれども、私たちは、罪を犯した後、神のもとに戻り、神と和解し、神との正しい関係に入るために、この無条件のゆるしを受け入れる必要があります。「わたしたちの負い目を赦してください」と願うときに、神が、私たちに対する怒りを抑えることとか、私たちに与えようとする罰、つまり、復讐行為をあきらめることを求めるのではなく、私たちが心を開いて、神の無条件のゆるしを受けることができるように、神が私たちの心を癒すことを求めるのです。

逆に言えば、私たちは、私たちに負い目のある人をゆるすことができないならば、私たちの心がまだ癒されていないし、私たちがまだ神のゆるしを受け入れずに、和解していないということが分かるのです(マタ 18,21-35 参考)。

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7. 「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」